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2019/02/06

コンテキストスイッチとタスク分割コスト

ある作業をしている途中に割り込みが発生して別の作業に切り替える、ということは仕事上よくあることだと思います。

フロー状態でプログラムを書いているところに電話がきて強制的に集中状態が途切れてしまったり、障害が発生して緊急的に調査タスクが発生し、その対応が終わった後に、もともとやっていた自分の作業に戻ったりする時、脳内メモリが一度リフレッシュされてしまいます。

A作業からB作業に切り替わる際、それぞれの作業で必要な情報や思考は別物なので、別の作業に取り掛かるために必要な情報を脳内メモリにリロードする必要があります。

ここでの脳内メモリのリフレッシュと再割当て作業による頭の中の切り替えをコンテキストスイッチと呼びます。

そして、このコンテキストスイッチは当然オーバーヘッドが発生します。

仮にAとBのタスクがあり、それぞれ50の労力が必要だとします。(図の灰色枠)

AとBのタスクをそれぞれ最初から終わりまでまとめて処理することができれば、純粋に合計100の労力で終わらせることができます。(図1A)

しかし、Aのタスクの途中でBのタスクもこなそうとした場合、コンテキストスイッチのオーバーヘッドにより合計100以上の労力が必要になります。(図1B)

Aのタスクが複雑であればあるほど「切り替えコスト」の数値は上がり、Bのタスクが途中ではさまることによる労力がどんどん膨らむことになります。

特に「フロー状態」を崩されると再度フロー状態に持っていくのに時間がかかるため、より切り替えコストが掛かることになります。(図1C)

「フロー」という言葉の意味が分からない人はここでは説明しないのでググるか無視してください。

各単体のタスクごとのコストだけをみて見積もりを出したとしても、その作業の必要集中度によって、割り込みが発生した際の作業者の負担はどんどん膨らんでいく可能性があるのです。

図1スイッチングコスト

 


個人の頭の中だけでもこれだけマルチタスク処理にオーバーヘッドが発生するのですから、これがさらに複数人の作業になってくると、いよいよオーバーヘッドファンタジーが始まってしまいます。

先程のAとBのタスクを10人で振り分けてやることにしましょう。するとどうなるか。

単純計算だと合計100の労力で終わるので一人あたり10の労力で済む計算になります。

ところがどっこい、そうは問屋がおろしません。

それぞれの「10」の作業を繋ぎあわせたり、前任者までの作業内容を確認したり、伝えあったりすることにもコストがかかります。

自分担当分の実作業をこなす以外にも多大なコストがかかるようになります。

結果、実際のタスク自体の作業コストよりも分担したことで発生したオーバーヘッドのコストのほうが高くなり、トータルの労力が一人で完結させた場合の倍、もしくはそれ以上になってしまいます。(図2D)

またAとBのタスクを並列して5人ずつで作業を行ったとしても一人で完結させるより時間がかかってしまう可能性すらあるのです。(図2E)

図2作業分割コスト

後半の話は『人月の神話』に似たことが書いてあるので興味があればぜひ読んでみてください。

作業と作業の間には可視化されていない作業がたくさん潜んでいるのです。

2019/01/15

錯覚の科学

この本の簡単な要約というかメモです。興味を持ったら読んでみましょう。

 

視覚の錯覚

これは見逃すわけはない、という思い込み。

この錯覚の実験に使われたのが原書のタイトルである"The Invisible Gorilla"です。 ハチに刺されたらその痛みで蚊に刺されたかゆみは感じなくなる、みたいなやつです。違うかもしれません。

記憶の錯覚

強く印象に残っている記憶は絶対正しい、という思い込み。

過去の思い出は美化される、というやつです。違うかもしれません。

自信の錯覚

自信があることと、それが正しいこととは比例しない。

意識が高いことと実際に成果を出すことはぜんぜん違う、というやつです。そのとおりです。

知識の錯覚

それが扱えることと、それについての仕組みを理解していることとは別。

ものを扱うのに必要なのは知識ではなく使い方です。 「使い方」という概念は日常では「知識」として扱われません。 テレビの視聴や録画予約、スマホの使い方、新幹線のチケットのとり方などは知識というよりかは教養の範疇です。 そういった意味で錯覚というよりかは言葉の定義のあやふやさが悪いだけかもしれません。

原因の錯覚

相関関係に因果関係を見てしまう錯覚。いくつかの事実の間に隙間を埋めて前後の因果関係を作り上げる。

地球のCO2濃度が増えると温暖化する、というやつがそうです。相関関係はあるようですが因果関係はまだ証明されていないはずです。因果が逆で温暖化によりCO2濃度が上がっているかもしれないですし、そもそもその2つの現象はなんの関係性もないかもしれません。

可能性の錯覚

あるトレーニングを行い、その成果範囲を拡大解釈してしまう錯覚。

数独をすれば数独を解く能力が向上するだけで、別に頭の回転自体が速くなるわけではありません。 「筋トレが最高のソリューションである」も可能性の錯覚だったと最近は思い始めています。

2018/12/19

ブラック従業員

私はブラック企業というものは企業(社長や経営者)がブラックなのではなく、そこで働く従業員こそがブラックであると思っています。

経営者の意識ではなく労働者の意識が変わらない限りブラック企業は無くならないと思います。

テレビや記事で「なぜ、このサービスはこの安さで提供できるのか」みたいな内容をやっているとき、大体の答えは「人件費を抑えてその分をサービス価格に還元しているから」です。

会社を運営する上で一番コストがかかるのが人件費という固定費です。

単純労働として考えるなら、労働者の賃金を安くするほど、労働者の労働時間を長くするほど人件費というコストが下がっていきます。

ですので経営する側からすれば自然とそう仕向けるようなムーブになるのはしかたないと言えます。

賃金を払う側からすれば毎月決まった額を会社の状態に関係なく払い続けるのは大変なのです。

実際に経営はしたことないので自分は知らないけど。

労働者側が波風を立てない限り会社がブラック化していくのは必然的な流れなのです。

海外に目を向けると、ストライキにより飛行機が飛ばない時があったり、公共機関が仕事をしてくれない時があったり、増税による暴動でパリが火で包まれたりしています。

労働者側がなにかしら「行動」を起こさないと環境は改善されないのです。

ホワイトな環境というのは経営者の意識改革ではなく、労働者の具体的な行動奮起によって創造されるものなのです。

私は日本で五本の指に入れるレベルの絶対定時で帰るマンという自覚がありますが、よく周りの人から「どうやったら定時で帰れるんですか?」と聞かれます。

答えはとてもシンプルでいつも「定時になったらただ帰るだけです」と答えています。

で実際に私は定時になったら帰っているだけで何も特別なことはしていません。

逆になぜ他の人が定時になっても帰らないのか謎です。

嘘です。理由はわかります。仕事が終わらないからです。

じゃあ私が仕事を常に定時までに終わらせているかというとそんなこともないです。

仕事が残っていようが上司から止められようが周りのみんなが残業していようが「定時になれば帰る」のです。

先程海外の例をだしたように、自分に無理難題をふっかけられたと思えばストライキなり暴動なりのように具体的な行動を伴った意思表示をしなければなりません。

何もアクションを起こさずに流れに身を任せるだけでは自然と残業が常態化してしまうのです。

定時で帰る方法は「無条件に定時になれば帰る」しかないのです。

帰らないから帰れないのです。

「ブラックはダメ、絶対!」と口では言いながら、日頃の仕事では、夜の8時に会議を入れたり、夜の10時にチャットで仕事のタスクを振ったり、それに対しレスポンスをしたりしている人は多いんじゃないでしょうか。

そして、それに文句を言わず応える人を「仕事ができる人」として評価してないでしょうか。

残業する人を評価し、自分も定時で帰ろうとしない。

自分はそうやって生きておきながら、いざ問題が社会現象化したら「自分は会社にハラスメントを受けてました」というのはあまりにも身勝手すぎるのではないでしょうか。

多少の不条理は社会人として仕方ない、と思いながらほとんどの人は生きてるんじゃないでしょうか。

その妥協と惰性がブラック企業を生むのです。

社会人としての不条理に抗う力強さがないとホワイトな労働環境なんて生まれません。

自分が労働生産性の観点からスーツ着用を断固拒否した時も、定時に帰って翌日に「なんでみんな残業してるのに君はしないの?」と言われた時も、自分に賛同してくれる人なんて誰もいませんでしたし、自分と同じ行動をとる人も誰もいませんでした。

ほとんどの労働者はそんなもんなのですからブラック企業なんてなくならないのです。

経営者を規則で締めつけたところで経営者のなり手が減るだけで労働者に益はありません。

労働者のマインドが変わらない限り会社は黒くなるのです。

2018/11/26

ルーティーンとコンフォートゾーン

コンフォートゾーンとは心理的安全地帯のことです。

わかりやすく言うと生活における「日常」のことです。

日本では多分、苫米地英人さんがこの言葉を広めました。

ルーティーンはみんなが知っているように、五郎丸選手の独特のポーズやイチロー選手の打席に立つときの一連のムーブなどのことです。

自分(もしくは他人)が決めた動作を常に毎日毎回同じように繰り返すことです。

自己啓発業界では「ルーティーンを大事にしなさい」と言ったり「コンフォートゾーンから抜け出しなさい」などとよく言われます。

しかしよく考えてみるとルーティーンとコンフォートゾーンは相反する概念なのです。

普通の人の一日の行動は日によってさほど変わりません。(平日と休日では変わってくるでしょうが)

毎日同じような時間に起き、同じように歯をみがき、同じように出かける準備をして、同じ電車に乗り、同じ会社に行き、同じ人達と仕事をし、行き慣れたお店で昼食をとり、適度に残業し、同じ電車に乗って帰宅し、適度に時間を潰して就寝する、といった日常の繰り返しだと思います。

細かくみれば多少の違いはありますが大枠でみれば大体の社会人は日々ほぼ決まったルーティーンで活動していることになります。

この時点でイチロー選手など見習わなくともみんなしっかりルーティーンのある生活をしているし、ルーティーンによる恩恵も受けています。

ルーティーンのもたらす恩恵こそが「コンフォートゾーン」なのです。

心理的安定を欠いた生活など普通の人にはとても耐えられません。

なので普通の人が普通に生活すれば自然と日常の大半のことはルーティーンになるのです。

捕虜になって牢屋に閉じ込められている人が急に祈りを捧げだしたり、よくわからない念仏を唱えだしたりするのは、不安しかない中で自分の体一つでできるルーティーンワークを編み出すことにより心の平穏を保とうとするための合理的な行動なのです。

ということで普通の人が日常を大雑把なルーティーンで生きることは理にかなったことなのです。

毎日違う場所から違う電車に乗り違う会社に行き違う人たちと仕事をするのはとても精神的に疲れるでしょう。(そういう仕事をしている人もいます)

で、その上でさらにルーティーンが大事だ、という自己啓発の教えの本質は、実はコンフォートゾーンという概念と密接な関係があります。

日常生活で無意識下で行っている行動を受動的なルーティーンと定義すると、イチロー選手や五郎丸選手が行っているルーティーンは能動的なルーティーンと定義することができます。

ある目的のために今まで習慣にしていなかった習慣を意識的に新たに取り入れる、これが能動的なルーティーンです。

能動的なルーティーンは、今までやっていなかった新しいことに取り組む+それを習慣化する、というじつはかなり難易度の高い作業なのです。

無意識で行うルーティーンと違い意識的に自分の行動を変え、かつそれを継続させるのは難しいことです。

大体のチャレンジは怠惰(受動的なルーティーン)の誘惑に負けて終わってしまいます。

自己啓発におけるルーティーンは能動的なルーティーンであり、新たなルーティーンを取り入れるためには、最初に受動的なルーティーンというコンフォートゾーンから抜け出す必要があるのです。

ですので「ルーティーンが大事」というときはルーティーンそのものが大事なのではなく「新しい習慣を取り入れる」ということが大事になります。

そして新しい習慣を取り入れるために「コンフォートゾーンから抜け出しなさい」となるのです。

ここからが自分が一番主張したいことなのですが、ほとんどの人はコンフォートゾーンからは意識的に抜けられません。

受動的なルーティーン(習慣)というのはみんなが思っているよりとても強いものです。

よほどの才能があるか狂人でない限り意識的に抜けることなど出来ないのです。

人間はそんなに簡単に心理的安全地帯からはみ出したりしないのです。

口ではいくら意識の高いことを言おうと、行動に移せるのはせいぜいコンフォートゾーンすれすれまでで、枠を超えることはほとんどありません。

やっている本人はコンフォートゾーンから抜けて頑張った、と思っていても別の人からみればさして普段と変わらないレベルの行動だな、という認識になってしまいます。

まず、ほとんどの人は自分の認知や価値観を客観的に分析もしていないし、その境目がどこにあるかを意識することもしていないでしょう。

意識しなければいけないことをすべて無意識に任せている時点で、コンフォートゾーンを意識的に超えていくなど本来できないのです。

そもそもコンフォートゾーンの範囲を認識できてないのですから抜けるもクソもありません。

そういうわけでコンフォートゾーンから抜けるという芸当はほとんどの人には意識的にはできません。

さて「意識的に」と保険をかけて表現しているわけですが一つだけ抜ける方法があります。

そうです「無意識的に」であれば抜けることができます。

その人の意識に関係なく周りの環境が変われば否応なくその人はコンフォートゾーンから抜け出し新しいルーティーンを築くでしょう。

そしてほとんどの人は意識的にではなく環境の変化により自然とコンフォートゾーンから抜けて新しいルーティーンを築いていっているのです。

牢屋で祈りを捧げだす人と同じように……

2018/10/12

教育とは教えないことである

人が人に何かを教えることは教育とは言いません。

よくある教育の現場だと、教わる側は知識がついたことにより成長を感じ、教える側はそれを見て達成感を感じますが、それは互いに自己満足しているだけであって人が成長しているわけではないのです。

「答え」を教えることは逆に成長の機会を奪っているだけです。

それだったら何も言わずに答えにたどり着けるまで静観している方がまだ教育として結果を出す確率が高いといえます。

自分から「答え」を出させるようにするのが教育の目的なはずです。

教育という字は「教え」を「育む」と書きます。

教えそのものを人に与えるのではなくて、教えそのものを育てるのが教育です。

みなさんが教育だと思いこんでいることは「教え」を「与えている」だけで、教育でなく教与です。

教えを与えることは教育ではなくただの教えです。

「知識の伝達」と「問題解決能力の育成」という全く違った概念を「教育」という言葉に集約してしまったことがそもそもおかしいのです。

知識と知恵の違いの話はよくありますが、教育と教えの違いも似たようなお話です。

人に知識を授けるだけでは教育とは言えません。

教育を受けた者が最終的に知恵を習得して、それを活かせるようになって初めて教育になるのです。

知識の伝達は知恵を育むための手段であって目的ではありません。

問題があってその答えをただ教えるだけでは教育になりません。

未知の問題を自分の力で解いて、その内容を他人に知識として「教える」事ができるようになる、ここまで辿りついて教育となります。

自分で「教え」を「育てた」結果、それが他人に伝達できる「知識」となる。

これが教育の流れです。

教えの伝達の矢印が逆なのです。

「教育する人→教わる人」ではなく「教わる人→教育する人」となるのが教育なのです。

教育を受ける側が主体となってアウトプットをしなければいけません。

インプットだけではダメなのです。

物事を一番良く理解できる方法として「人に教えること」というのがありますが、そういうことです。

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