Something like blog

2018/09/25

反語彙力

語彙力という言葉がある。

雑談力という言葉がある。

知っている言葉の量が多いほど、持っている知識が多いほど能力が高いらしい。

はたして本当にそうだろうか?

語彙の多さと知識の多さは力なのだろうか?

力といえば力かもしれない。

実際に多彩な言葉を使いこなすには、それ相応のインプットとトレーニングが必要だ。

でも、日常の多くの場面では力として機能するのではなく、ただの足枷にしかなっていない気がする。

言葉というのは定義が曖昧であればあるほど使いやすく、また日常会話でも実際によく使われる。

「すごい」「やばい」「かわいい」などの言葉は相手の話の相槌として凄まじく万能に使えるし、実際に使われている。

では、それらの言葉をたくさんの語彙を用いて詳細に表現したらどうなるだろうか?

「すごい」を「上腕二頭筋の肉付きが素晴らしい!」と具体的に言ったら、「いや、筋肉じゃなくて重いものを持ち上げて運んであげたことがすごいんだけどな」となって、具体的に褒めてしまったが故に相手が褒めて欲しかったこととの相違があらわになる可能性がある。

こうなった場合、語彙力はコミュニケーションに亀裂を生むネガティブなベクトルの力として働いてしまう。

「やばい」を「バッターとして本塁打をたくさん打つと同時に先発としても投げられるのは松井と松坂を足しても2で割らなくてもいいレベルの怪物だよ」と言って「え、松井と松坂って誰?(野球そのものの知識はない)」と言われたり、挙げ句その後、相手が興味のない野球の話を延々と続けて愛想を尽かされたり、

「かわいい」を「全体的にふっくらしてて豚みたいだね(この人は豚は可愛いものと思っている)」と具体的に言って「豚に例えるなんてひどい!(この人は豚をデブの象徴だと思っている)」と受け取られるかもしれない。

…そういったことが日常会話レベルだとわりかし多くあるので、語彙力ではなく反語彙力という概念を打ち出したい。

物事を細かく言語化してしまうほど、日常会話に大切な「共感」という潤滑油が失われていく。

歯車の歯が多くなればなるほど歯数の少ない歯車とは噛み合わなくなっていくように、必要以上の語彙による表現は逆にコミュニケーションを阻害・分断する原因になる。

だから、日常会話に大事なのは雑談力ではなく反語彙力なのだ。

むしろ、共感を生む反語彙力こそが雑談力とも言える。

ただし、同じコミュニケーションでも共感と意思疎通は別物なので注意。

2018/09/20

客観視

地頭が良い(自分が有能だと感じる人)かそうじゃないかの差は、自己問答する習慣があるかないかの差のような気がする。

普通の当り障りのない人生だと、自分の感覚があまり否定されることがないので、他人と自分の違いを考察する機会がなく、客観的に自分を見つめる機会がない。

博識の人が説明や例え話がうまいのは、自分の持つ知識をそのまま伝えても大抵相手のリテラシーが低くて共感を得られにくいからだ。

そこで、他人に共感してもらえるように工夫してわかりやすく伝えようとする。

それを繰り返しているうちにどんどん説明がうまくなっていく。

逆に自分のアウトプットが相手の共感を得られない、という経験があまりない人は、自分の頭の中の考えを分解して分かりやすく適切な例えを使って伝えたりする機会が少なくて、論理的に説明する能力があまり身につかない。

日常が共感にあふれていて自己問答が発生しない環境であるならば、それは自分と相手のリテラシーが均衡している状態で、ある意味「井の中の蛙大海を知らず」状態なので、思考力を鍛える土台自体が存在しない。

そもそも蛙は海に行く必要はないので、日常圏内では論理ではなく感情や共感がコミュニケーションの肝になっている。

思考力を上げるには相手のリテラシーを上回る知識や思想を身につけるか、もしくは自分のリテラシーを上回る知識や思想を持つ集団に所属するしかない。

共感されにくい考えを苦労して説明するより、そんなものはドブにでも捨てて、周りに共感される思考でやりとりするのがコミュニケーションというものなのかもしれない。

2018/08/28

DIは「動的依存関係」

DI(Dependency Injection)を日本語にする時、だいたい「依存性の注入」という訳が当てられていると思います。

直訳するとDependencyが「依存」で、Injectionが「注入」になるので、それをそのままつなげて「依存性の注入」としたのでしょう。

ただこれだと「注入」の方は何かを何かに入れるんだな、というのがなんとなく分かりますが、「依存性」が具体的に何を指すのかさっぱり分かりません。

そもそも依存性が何かから何かに移動したら、それはもう依存とは言わないのでは?など、単語にはなっているけど現実世界においては全く具現化できない粉末水素水みたいなことになっています。

自分はJavaのSpringフレームワークを扱う際にDIという単語と概念に出会いました。

しかし、結局その現場を去ったあともDIが具体的にどういうことなのかさっぱり分かりませんでした。

そこで、rubyのシンプルなコードで分かりやすく説明してみます。

class Hoge
  attr_reader :bar
  def initialize
    @bar = Object.new
  end
end

hoge = Hoge.new

というコードが合った場合hoge.barオブジェクトはHogeクラスのコンストラクタにべた書きされているので、hogeインスタンスに強制的に結びつくことになります。

インスタンス生成者はHogeクラスをいじれない限りhoge.barに干渉することはできません。(やろうと思えばできます)

基本的にhogeのインスタンスメソッドでない限り@barの内容はいじれないことになっています。

このコードを以下のように書き換えます。

class Hoge
  attr_reader :bar
  def initialize(bar)
    @bar = bar
  end
end

hoge = Hoge.new(Object.new)

この場合、hoge.barオブジェクトはhogeインスタンスを生成する時に生成者が好きなものを指定することができます。

最初のコードだとhogeインスタンスに強制的に結びついていたものが、インスタンスの生成者が@barオブジェクトを自由に指定できるようになっています。

インスタンスとインスタンスオブジェクトの関係を動的に結びつけてあげられるようにする、というデザインパターンがDIです。

dependencyはOALDで以下のように定義されています。

dependency (on/upon somebody/something) the state of relying on somebody/something for something, especially when this is not normal or necessary

依存性というよりかは「何かが何かしらに頼っている状態」という意味だから、Dependency Injectionは「ある状態」を「何かしら」にinjection(注入)して結びつけることにより依存関係を築く、という意味になるのです。

上記のコードだと「Objectクラスのインスタンス」を「Hogeクラスのインスタンス」に注入して結びつけて、「Objectインスタンス」が「Hogeインスタンス」に依存する関係になった、ということです。

ですので「動的依存関係」ぐらいの訳にしておけば、まだ分かりやすく意味の通る言葉になっていたはずです。

2018/08/27

ノブレスオブリージュ

ギブアンドテイクとか「まずは与えよ」みたいなものは欺瞞だと思う。

そもそも人に何かを与えるためには前提条件として自分が何かを授かっていなければならない。

人に何かを与えられる人は自分がギフテッドだという認識がないだけで、持たざる者に対して無理難題をふっかけているだけだ。

毎日しっかり三食摂取することができ、気持ちよく眠れる布団がある生活は日本に生まれていれば大体の人が手にすることができる。

しかし、発展途上国のスラムの人たちにとってはとても高い理想かもしれない。

それを「ご飯が滿足に食べれなくて温かい布団で寝れない生活なのは君の努力が足りないからだ」と言ってみたところで、そんなものはどう考えても個人の努力の差ではなく生まれた環境の違いのせいだ。

「人から愛されたいならまずはあなたから愛しなさい」だといい感じの言葉に聞こえるけど「人からお金をもらいたければまずはあなたから払いなさい」ってなったら、もともとお金を持っていない人はそもそも経済というゲームに参加することすらできない。

人により貧富の差があるように、人生によって愛や憎悪を受けてきた度合いも人それぞれなんだから、ギブファーストを基準にしたら、もともと愛を持つもの同士でしか愛に包まれた世界で暮らすことができないし、憎しみを持つものは憎しみ合うことしかできない。

これだと、富めるものがより富み、貧しいものがより貧しくなって貧富の差が開くばかりのような構図になり、救済の余地がない。

だから待たざる者は神に祈るようになった。

無条件で自分にギフトを与えてほしいからだ。

すべては神からの祝福から始まる。

人はそこから授かった力を持って何かを成し得るのだ。

まずは「持たざる者」から「持つ者」になりたいのだ。

持たなければそもそも何も始まらない。

「みんなができるはず」と無条件に思ってしまうのは持つ者の驕りだ。

自分がみんな持ってて当たり前だと思っていることも、案外みんな持っていなかったりするのだ。

だからノブレスオブリージュという概念を発明し、可能な限りみんなに神の祝福が届くように努めた。

人に何かを与えるという行為は、神からの授かったものを次の誰かに託す(ペイ・フォワード)ことなのだ。

ノブレスオブリージュというのは、神の祝福が届かなかった(no blessed)者に対して、神の代理として何かを与えなさい(oblige)、という救済の思想なのだ。

ギブアンドテイクはそんな救済の思想をないがしろにする無慈悲な考えだ。

人は何もせずとも存在するだけで祝福を受けるし、また無条件に祝福を授かるべきなのだ。

結局、最初に持つか持たないかは神の気まぐれガチャにかかっている。

2018/08/22

意味がない意味

言葉というのは人間の思想や感情を束縛する凶器になる。

自分がある思想の信奉者だと表明すれば、それ以後、自分はその思想という枠に束縛されるのだ。

思想の定義の中に腑に落ちない部分があったとしても、自分はその思想の信仰者なのだから、と無理やり自分に言い聞かせるようになるのだ。

自分が表現者なのではなく、逆に言葉があなたを縛ってくるのだ。

だから、あえて意味を追求せずにおいたり、言葉にもしない、ということも必要になる。

そうすることで自分の持つ感情に間違った概念を与えられたり、自分の中でゆるがすことのできない大切な何かを守ることができる。

そもそも言葉にならないものは言葉にならないし、それをさらに突っ込んで聞こうというのは無粋だ。

相手に無理に意味を求めることも、言語化させるという意味で相手の感情や思考を束縛する可能性があるのだ。

意味を求めないことも時には大切なのだ。

ところで、なにか楽しいことがあったときに「楽しい」と感じた時、それはホントに楽しかったのだろうか?

自分が感じたことは「楽しい」なんだろうか?

感情を表現する言葉で「喜怒哀楽」という言葉があるが、この四種類の感情だけでは表現できない感情が実際には無限にあるはずだ。

これは虹を扱う表現に近いものがある。

一般的に虹は7色で表現するが、現実の虹は細かく分解していけば無限に近い色味を抽出することが可能だ。(といっても人間が識別できる色には限度があるけど)

しかし、基本的に虹の配色で7色以上の色名を用いることはほぼない。

幼稚園のお絵かきの時間でとある子が、赤と橙(オレンジ)の間の色を表現したいと思ったとしよう。

しかし、手元にあるクレヨンないし色鉛筆が12色セットだった場合、表現することができない。(いや、赤と橙を重ねて間色を表現する技法もあるけど)

しかたなく、表現したい色は諦めて、赤か橙どちらか自分が近いと思った方の色を使って描くことになるだろう。

これと同じように自分の中の感情が言葉として用意されていなかった場合、それに近しい言葉を選んで、自分の感情を表現することになる。

もしくは何かを言葉にしたとき、しっくりこない違和感みたいなものを感じてもそれ以外の表現が思いつかないのでそのまま表現する、みたいなこともある。

言葉として表現をしたものの、実際に自分が抱いた感情とはズレが発生するのである。

突き詰めれば全ての言葉は完璧に感情を表現できるわけではなく、あくまでも「この気持はこの言葉だな」となんとなく結びつけているだけなのである。

「楽しい」と感じたことも、限りなく「楽しい」に近いけれど純粋な「楽しい」じゃない別の何かかもしれないけど、それを言い表す言葉がないのでとりあえず「楽しい」ということにしているだけなのだ。

極端な例えだけど、もし世界に感情を伝える言葉が喜怒哀楽の「哀」の言葉しかなかったら、ムカついたり嬉しかったときにどうやって言葉で相手に気持ちを伝えればいいだろう?

とりあえず「僕は哀しいです」というしかない。

概念が一つしかないから「感情が動いた」という心の動きしか言葉で伝えることができない。

それが怒りなのか嬉しさなのか悲しさなのかまでは言葉で分別できない。

ムカッとした気持ちでも嬉しい気分であったとしても「哀しい」という言葉として表現してしまったら、この世界では「感情が動いた」ということだけで片付けられてしまう。

言葉にしてしまったせいで自分の中の怒りや嬉しさがなかったことにされてしまうのだ。

ここまで極端な例はないにしても、現実世界でも言葉にならないことはいくらでもあるはずだ。

そして、意味を完全に一致させることはできなくとも可能な限りそれに近いパターンの状況を言葉として提供する試み、それが物語や詞(lyric)が持つ価値なのだ。

More entries ...