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2019/09/04

科学と宗教の間

科学と宗教という2つの単語を並べた時、それぞれ全く別物という認識をみなさんは持つのではないでしょうか?

しかし、実は互いの境界線はとても曖昧であり親しい存在であったりします。

最近読んだ『三体』では、科学と宗教の親和性の高さを示唆するような展開が含まれていました。

ある科学的取り組みの結果、紆余曲折を経て、とある目的を遂行するための組織が発生し、それがいつの間にか宗教団体のようになります。

そして、キリスト教やイスラム教と派生していったユダヤ教のように、その組織がさらに別の宗派を生み出していく過程が描かれています。

科学と宗教の親しさを感じさせる、興味深い内容だと感じました。

それはさておき、最初にそれぞれの言葉の意味を改めて確認してみましょう。

科学を英語にするとScienceです。

OALDで調べると

knowledge about the structure and behaviour of the natural and physical world, based on facts that you can prove, for example by experiments

定義してあります。

そして宗教は英語にするとReligionで、OALDだと

the belief in the existence of a god or gods, and the activities that are connected with the worship of them, or in the teachings of a spiritual leader one of the systems of faith that are based on the belief in the existence of a particular god or gods, or in the teachings of a spiritual leader

定義してあります。

科学とは実験により証明された動作と構造に関する知識体系のことであり、宗教とは神もしくは精神的指導者の教えを信じること、またはそれに関連した活動とその仕組みであることが分かります。

ちなみにknowledgeで有名なのはニュートンの万有引力の法則やオームの法則であり、spiritual leaderで一番有名なのはキリストですし、teachings of a spiritual leaderで一番有名なのは新約聖書です。

ところで、科学の説明にある「知識(knowledge)」と宗教の説明にある「教え(teachings)」というのは日常的にはさして分別されることなく扱われています。

科学に関してはnatural and physical worldだけを扱っている分には分かりやすいのですが、学問も含めると経済や社会、心理、民俗学、言語学などの物理的なものだけではなく論理的な事柄までも対象になってしまいます。

論理的なジャンルの科学まで裾野が広がると、学校の教科書からだけでなく、TVやインターネットを通じて大量の知識が発信され、巷に溢れかえっています。

宗教の教えに関しても過去からの数百年、数千年の歴史があるので、神話という単純なストーリーやナラティブだけでなく、長い年月によって蓄えられた森羅万象に対する鋭い考察も少なからず含まれています。

そして精神的指導者(spiritual leader)は、親鸞や大川隆法のような教祖でなくとも、親であったり先生であったり経営者であったり身近な人にも当てはめることができます。

今風にわかりやすくいうと「メンター」というやつです。

このように、歴史の深さとあらゆる人が発信することができるという2つの要素により、教え(teachings)の方も巷に溢れかえっています。

こういった巷にあふれるほとんどの「知識」や「教え」は因果の相関について言及しています。

錆びた10円玉にタバスコをかける[因]ときれいになる[果]ことであったり、トイレ掃除をする[因]と心がきれい[果]になる、といったことです。

因果応報という思想は科学にも宗教にもあります。

薬を飲んで病気を治したとしても、神に祈祷して病気を治したとしても、「治った」という結果が得られれば、それが科学的であろうと宗教的であろうと我々はどちらでもさして気にしないのです。

海水を蒸発させると塩がとれますが、これを科学的に説明すると、海の水には塩化ナトリウムが含まれており、水分を蒸発させることにより塩化ナトリウムだけを残すことができ、この塩化ナトリウムを一般的に塩と呼んでいる、となります。

しかし、科学がまだ存在しない時代であれば、海と太陽が起こす軌跡によりしょっぱい粉ができる、ぐらいの認識になります。

ここで重要なのは、科学的に証明されていようといなかろうと「塩」という存在自体は不変なのです。

現代人の我々も普段塩を扱うときに、これが塩化ナトリウムだという科学的視点は別段持ちません。

あくまでも調理で使う調味料の一つぐらいの認識ですし、思っても「塩分を取りすぎると体に悪いな」ぐらいです。

それが科学的方程式の結果生み出されたものであろうと、神の奇跡で生み出されたものであろうとも我々が塩を調味料として使うことに変わりはないのです。

日常生活では塩という調味料が存在するだけでいいので、その生成過程が科学的文脈であろうと宗教的文脈であろうと使う側にとってはどうでもいい問題なのです。

科学(science)の中でも物理学における塩の扱いはとても分かりやすいですが、これが心理学や経済学で扱われると少し「科学的」ではなくなってきます。

例えば「塩を1グラム摂取してから睡眠をとると気持ちよく眠れる」という調査結果があるとしましょう。(ただの例えなので現実にそんな研究結果はないです)

そこで調査内容の詳細を確認してみると、寝る前に塩1グラムを摂取したA群と寝る前に砂糖1グラムを摂取したB群にそれぞれをアンケートを取った結果、A群では「普段よりぐっすり眠れるようになった」と回答した人が80%いたがB群では20%だった。

この結果から睡眠前に塩1グラムを摂取すると睡眠の質が上がる傾向があると確認できた。

というような内容であることが多いと思います。

海水を蒸発させるとほぼ100%塩が取れるのに対して睡眠に関しては20%の人がそもそも効果を実感できていませんし、80%の人たちの回答も「何を持ってして普段よりぐっすり眠れるようになったと思ったのか?」といった疑問も残ります。

natural and physical worldとnatural and physical world以外を扱う科学的取り組みには決定的な精度の差があるのです。

物理学には100%の再現性が求められますが、統計を扱った学問においては、Aさんには当てはまるがBさんには当てはまらない、といったこともありえます。

ただ、十中八九の的中率でも信頼性は高いですし、多少の例外があるとしても大体の人には適用できます。

そして、その運用性の高さから社会生活に役立てることができるので、知識(knowledge)として採用されているのです。

この科学における十中八九の信憑性と宗教的な文脈における再現性の高い教え(teachings)はその精度において互いの分別がとても難しくなります。

不摂生における体調不良は科学的にも説明できるし宗教的にも説明できます。

栄養の偏りを原因にすることもできますし、神の教えや経典の内容に背いた不信における罰が当たったとも捉えることができます。

「努力は必ず報われる」は宗教ですが、筋トレをしてプロテインを摂取して筋肉をつけようとするのは科学的アプローチです。

頑張ってがむしゃらに運動して痩せて「努力が報われる」場合もあるし、頑張ってがむしゃらに運動したけど、その結果、体を壊して逆に不健康になる可能性もあります。

メソッドに決められたとおりの運動と栄養摂取により理想の体を手に入れられる人もいれば、生まれ持った体質のせいで筋肉がつきづらい人もいて思ったよりも成果が出ない人もいます。

再現性が100%ではない時点で、科学と宗教のアプローチにさして違いはないのです。

宗教の教え通りにやって成果が出れば、宗教が素晴らしいということになりますし、科学的アプローチで取り組んで成果が出れば、科学が素晴らしいということになります。

逆にそれぞれで成果が出なければ「この教えは間違っている」や「この知識は役に立たなかった」ということになります。

このようにみると、日常生活において科学と宗教の境界線は曖昧なんだな、と認識していただけたと思います。

さらにです。

あらゆる科学は厳密に言えばすべて仮説です。

100センチの棒があればそれは日本で測ろうとブラジルで測ろうと常に100センチです。

また、100グラムの鉄があればそれは日本で量ろうとブラジルで量ろうと常に100グラムです。

フランスで量ったら90グラムになったりはしません。

物理的な科学法則は100%の再現性があります。

そうでないと現代のマスプロダクションの技術文明を支えることはできません。

しかしです。

最初に紹介した『三体』に登場するお話として「農場主仮説」という思考実験がでてきます。

今現在我々が当たり前として認識している科学法則も別の第三者が管理しているにすぎない、という仮説です。

例えば、我々がまだ解明していないだけで5次元や6次元などの多次元が存在したとします。

そしてその高次の次元においては、我々の住む3次元世界の物理法則に対して介入する力があるとします。

そしてある日、その高次次元の存在がなにかの拍子に、物理法則を書き換えると、100グラムという重さが急に50グラムになったり、水を分解しても水素と酸素にならない世界になる可能性も0ではないのです。

100グラムが100グラムであることも、いってしまえば、たまたま人類史が続いている間その法則が続いているだけ、という可能性もあるのです。

そういった意味であらゆる物理法則も上記の仮説が観測されれば、無残にも崩れ去ってしまうのです。

そういう可能性がある以上、科学的に物事を考えるなら物理法則ですら「仮説」になるのです。

そして、100%ではない科学は宗教とあまり変わらない話を先ほどしました。

科学の検証も「仮説」を提唱するところから始まります。

仮説が真実であると「信じる」ところから科学が始まるのです。

科学にだって仮説に対する信仰心という宗教観が存在するのです。

Tags: 哲学,

2019/08/07

ヒーローインタビュー

内容が思いのほか長くなってしまったので最初に結論だけ書いておきます。

  • 質問者は相手を理解するために質問しているのではなく、自分の中の「イメージ」に沿う回答が得られるように誘導尋問をしている
  • 質問者が得られる回答の質は質問者の質に依存する

の2つが書きたかった内容です。


それでは本文です。

野球のお立ち台の時のインタビュアーの質問ってワンパターンだと思いませんか?

だいたい「打席に入った時の気持ちを聞かせてください」と質問して、だいたい「絶対にここで打ってやるんだ、という強い気持ちで打席に入りました」と答え、そして球場が沸く、といった流れです。

ちょっと話が横にそれるんですが、こういった意気込みを選手に聞くのはやめてほしいと個人的に思っています。

たしかに、サヨナラホームランの後にそういったやり取りをして観衆を盛り上げたい意図は分かります。

しかし、その打席以外の他の試合、他の打席において散々「ここで打てば完全に試合を決められる」といった場面でことごとく凡退していたりします。さらに次の回にエラーをしてしまい、それが決勝点になってしまったり……

決定機でなくとも打席に入ればベンチからのバント指示などがない限りはどの打席であろうとバッターは「打つ(あるいは塁に出る)」という気持ちで打席に入っているはずです。

仮に気持ちの強さが結果につながるなら、凡退した打席は「打つ気持ちがなかった」ということになってしまいます。

なので自分としてはチャンスで凡退するたびに「お前勝つ気あんのか?」という気分になってしまいます。

勝率が高いチームだと勝つ機会の方が多いので「打席に対する意気込み」で盛り上がるのもいいですが、勝率が低く負け越しているチームだと、勝って盛り上がる機会より、チャンスで打てずフラストレーションがたまる機会のほうが多くなります。

シーズン全体で見れば、ストレスが発散されるよりむしろストレスが蓄積されます。

ですので勝利インタビューの時は、打席に入る前の意気込みを聞くのではなく、純粋に打った後の気分だけを聞いてほしいと思います。

そうすれば「最高の気分です!」となって観衆も盛り上がれますし、その1打席の結果に対しての「気分」なので、他の打席の「意気込み」にも影響しません。

ホームランを打った後の気分は、その前の打席でワンアウト満塁の場面でゲッツーを取られてしまった時の意気込みとはなんの関係もありません。

そこを「絶対に打ってやるという気持ち」と言われてしまうと「じゃあ、前の打席でゲッツーになってしまったんはやる気がなかったんか?」といった邪推が発生してしまいます。

勝利インタビューに関する愚痴はこの辺にしておきます。

ここで言いたかったことは「質問」というのは得てして自分たちの知らない「何か」を知りたいのではなく、自分たちの中で何かしらの納得感を得たいために行うということです。

自分の知らない何かを相手から引き出したいのではなく、自分の中にある、あらかじめ存在している仮説というか希望に対して辻褄を合わしてほしいのです。

「打席に入った時の気持ちを聞かせてください」と聞いて「別に」と答えられることはかけらも想定してないのです。

答える方も相手が何を求めているかは空気でなんとなく分かるので、自分のホントの気持ちはひとまず横に置いておいて相手が求めているであろう答えを回答するのです。

つい口がすべって本音を出してしまい「別に」と答えてしまった日には世間一般の皆さんからものすごいバッシングを受けてしまいます。

ですので、インタビューに対する受け答えは予定調和であり、相手から何かを引き出すのではなく、聞き手側の「空気」を読んで、その期待に答えるだけのやり取りとなるのです。

質問をしているのに、実際に欲しているのは知識や情報ではなく共感なのです。

こういった慣習が記者(質問者)の質の低さという現実を生んでいます。

最近では、記者会見の様子をYoutube等で生放送で視聴できたり、無編集の映像をまるまる見れる機会が増えました。

「編集」というフィルターを通すことなく、実際の質疑応答の一部始終がダイレクトに世間一般のみんなにさらされるようになりました。

イチローの引退会見やここ最近の某お笑い芸人周りの騒動における会見を見ていると、記者の質問内容があまりにも低レベルでびっくりしてしまいます。

支離滅裂で自分で何を言っているのか理解できていないのでは?と思わせる発言や、同じような質問、会見の趣旨と全く関係のない質問をとても高い打率で繰り出しています。

そこで、なぜ質問の質が低いのか?を考えると上記までで述べてきた「質問者に求められるのは相手から情報を引き出す能力ではなく世間一般から共感を得られる答えを引き出す能力」という環境要因がある、と考えることができます。

だいたいの場面において、相手の意向や感性、考えを引き出すのではなく、自分の中であらかじめ決まっている「こういった反応がほしい」をいかに相手から引き出すか、という行動原理が求められているのです。

イチローに偉大な記録を達成した時の気持ちや、それを達成するまでにいかほどの努力を要してきたのかを質問するときは、それ相応の嬉しい気持ちや努力の軌跡を語ってほしいのです。

そこで「特別な気持ちとかはないですね」と言われると困るのです。

偉大な記録にはそれに見合うだけの納得のいく理由やストーリーが欲しいのです。

そして期待した回答と違った回答をされた記者は脳内で例外処理が発生してフリーズしてしまい、それを見たイチローが「僕なにかおかしなこと言いました?」「ちゃんと聞いてます?」となるのです。

そして記者側はめげずに違う言い回しで同じ質問をして、自分たちの期待する偉大な選手に見合う回答を引き出そうとがんばります。

そして「その質問さっき答えましたよね?」と言われて撃沈するのです。

相手から何か新しい知見や感性を引き出そう、という前提でやり取りを聞くと「頭の悪い質問だな」という感想になりますが、相手から共感できる何かを引き出そうとしている、という前提で捉えれば記者側の質問内容に対して多少は納得感を持てるのではないかと思います。

質問に対して回答者が回答する内容は質問者にかなり依存していると言えます。

イチローみたいな一部の天才は質問者の願望を考慮せずに誠実に正直に答えますが、ほとんどの人は「別に」とストレートには答えずに、ちゃんと空気を読んで「皆さんが支えてくれたおかげです」と質問者とその背後にいる多数の人間が望んでいる回答をします。

イチローのようなみんなが知る天才であれば奇抜な受け答えも、それはその人の味としてプラスに受け取られますが、有象無象の一般人である我々が相手の願望を無視した回答を行うと質問者から「こいつなんやねん、空気読めや」と思われて終わるだけです。

そういった意味で質問する人の器の大きさが回答者の回答できる幅を決めると言っても過言ではありません。

ある質問に対して質問者の意に反する回答がきた場合に、ダメと思って一蹴するか「こいつ鋭い目線持ってるな」と興味を抱くのでは評価が180度変わってきます。

自分の都合に対する空気を読んでもらうのではなく相手側のバックボーンに対して知識を持ち敬意を持って質問すれば、相手側も「この人にならこの話をしても理解(or 共感)してくれるかもしれない」となり、新たな知見や感性を引き出せる可能性が増えるのです。

相手から何か斬新な回答を得たければ、質問者自身が「私はあなたの回答を受け止めることができる」器の持ち主であることを回答者にあらかじめ知らしめなければいけないのです。

そういう意味で、面接官は自分の能力を超えた面接者を見抜けないのです。

相手に膨大な知見があったとしても、受け取り手である質問者に相手の知見を引き出すための素養がなければ回答者は自分の知見を披露することはないでしょう。

質問者が得られる回答の質は質問者の質に依存するのです。

Tag: コミュニケーション

2019/07/01

ドキュメント風林火山

今回は上記を読んで、なんとなくパクっ……もといインスパイアした内容となります。


今まで一緒に仕事をしていく中で本当に心強かったのは、最近エンジニアのキャリアパスの議論でよく言われるようなマネジメントができるエンジニアとか最先端の技術に精通しているエンジニアではなく、あるいは人と異なるユニークな能力を身に付けようとしているエンジニアでもありませんでした。

ではどういうエンジニアが、ということの答えの一つとして、技術力云々ではなく、ドキュメンテーション能力が大事だと考えています。

そこで、開発におけるドキュメントの要素についてまとめたものが次の表です。

分類 能力
風のドキュメント化 迅速な文章化によってチームを加速させる。
風のドキュメント化が発生しない開発チームでは、議事録やメモが残りづらく、そもそも「ドキュメントを書く」という文化が発生しない。
林のドキュメント化 突発的なトラブルが発生しても冷静に対処し、原因と対処の文書化、及びそれをもとに作業を標準化することができる。
その結果、チームに乱れぬペースを提供する。
林のドキュメント化が発生しない開発チームは同じようなトラブルを永遠と繰り返し、人の入れ替わりにも弱い。
トラブル時や引き継ぎ時に何をすべきかの正確な判断を行えず、混乱に陥りやすい。
火のドキュメント化 焚書。
運用を進めていく中で不要になった情報を削除したり、仕様変更に合わせてドキュメントを更新していくことによりチームやその成果物の競争力を高める。
火のドキュメント化が発生しない開発チームは古くなった情報や不要な情報に惑わされてチームの進捗スピードが鈍くなる。
山のドキュメント化 厳密なチェックと堅牢なドキュメント管理によって成果物の安定性を高める。
必要なときに必要な情報にすぐアクセスできる環境を整備する。
山のドキュメント化が発生しない開発チームは曖昧な仕様による認識のズレが常に発生し、チームメンバーのナレッジも弱くなる。

「風」からドキュメント化という文化が発生し、「林」で育て、「火」で質を上げていき、「山」で定着させる、といった流れになるでしょうか。

これらすべての要素が揃わないと質の高いドキュメントは生まれません。

プログラマー風林火山と違ってドキュメント風林火山のほうはあまり属人的な要素はないので、「各個人がどの要素が得意か?」というよりかは「ドキュメント化にはこういった要素があります」という内容になってしまいました。

あと、書いてて思いましたが「ドキュメンター」のような文章化を行う人を呼称する言葉ってないんですね。

最初に書いたとおり、ドキュメントはある意味技術力より重要だと思うので、それ相応の呼び名があっても良いと思います。

もう一つ、ドキュメントと同じくとても重要なのにあまり日の目を見ない能力として「バグ取り」があります。

バグの事前発見とその修正はシステムの安定化にとってとても大切なことだと考えています。

バグを潰すのが得意な人にもそれ相応の呼び名があって良いと思います。

ちなみに私はバグを見つけて修正する人を「バグシューター」という呼称で呼ぶことを提案しています。

Tags: 仕事, プログラミング

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