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文章量:約1600字

できるとできないの距離

努力は嘘をつく?

むかし、ダルビッシュ有が「練習は普通に嘘をつくよ」と書いていました。

「練習は嘘をつかない」という言葉がありますが、これを『努力が必ず報われる』という意味でとらえてはダメです。

まず、練習をすれば、練習をしたという事実は作れます。そして、自分はこんなに頑張ったんだから、その頑張りを無駄にしちゃダメだ、と、その事実をうまく自分の行動に転嫁するのが「練習は嘘をつかない」という言葉の使い方らしいです。

この話は確か元中日監督の落合さんのインタビュー記事に書いてあったと思います。

逆上がり理論

ところで皆さんは、子供時代逆上がりが出来る人でしたか?

だいたいの人はできたと思いますが、クラスに数人はどれだけ練習しても練習しても一向にできない人もいたと思います。

自分は鉄棒がとても得意だったので、できない人をみて、純粋にやる気がないだけなんじゃないか、と思っていました。

勢いをつけて地面を蹴って体を回すだけの簡単な動作なんだから、そんなアホみたいに簡単なこと、やろうとすれば誰でもできて当たり前じゃないか、と。(ただし、あまりにも太っていて脂肪がつっかえてしまっている人は体型の問題だからしょうがないな、と思っていました。)

なので、逆上がりができない人はやる気がないだけだと思っていたので、何故できないのかを理解することができませんでした。

ただ、大人になって、いろんな人たちをみてきた結果、人の生まれ持った能力には先天的な差の影響がかなりあるんじゃないか、だから、人それぞれで割と大きい能力の違いがあるのも、それはそれでしょうがないんじゃないか、と考えるようになりました。

逆上がりができなかった人は、できるようになるためにすごい練習もしたし、悔しい思いもしていたんじゃないか、と思い至りました。

以上の話から、「できる」「できない」の差は努力の有無よりも才能の有無の差の占める割合の方が大きい気がします。

どこまでが個人の才能か?

しかし、行動心理学的な視点でいうと、個人個人が何をするかというのは、その人の持つパーソナリティよりも、その人がおかれた周囲の環境(外的要因)の方が与える影響が大きいと考えられています。

例えば、上記の例でも、日本の裕福な家庭に生まれたのではなくて、アマゾンのジャングルにある狩猟民族の子供として生まれていれば、逆上がりぐらいは楽勝にできる身体能力を身につけていたのかもしれません。

ただ、生まれてくる子供は親を選ぶことはできないので、一人一人の人生がどのようになるかも突き詰めていうと運任せなところがあります。

そうなってくると、俗にいう「努力できること自体が才能」という話もあったりして(本人の意思とは関係なく)努力するかどうかも環境によるところになるので、「できる」「できない」の差がどこまで「才能」なのかは難しいところです。

できる人とできない人が分かれるからこそ

ここで言いたいことは、努力しても報われないのなら、努力をするのは無駄、という話ではありません。

今までで述べてきた通り、生まれ持った才能や環境で人の得意不得意はバラバラになります。自分が当たり前にできるからといって、他人にもそれが当たり前のようにできるわけではない、ということです。

会社一つとってみても、経営、営業、経理、カスタマーサポート、エンジニアといろんな職種があり、役割や必要となる才能や能力が全然違います。

みんながそれぞれの持つ得意な能力を活かして結集することにより、成果を出していけるわけです。

人一人がそれら全ての能力を兼ね備えていて、かつ、全てを実践せずとも社会は回るのです。現実として、できるとできないとの間には埋められない絶望的な距離があります。

が、社会はそれを補うように発展してきました。自分ができなくても、他のできる人に頑張ってもらったらいい。逆に他人が苦手で自分が得意なら自分が頑張ればいい。

そういったことを認識することで、できないからといってすぐにダメだと判断せず少しでも人に優しくなれたらいいな、と思います。


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Tag: 哲学