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How To Do Great Work

上記のポールグレアムのエッセイがとても良い文章だったので、メモがわりに気に入った文章を引用してここに置いておきます。

このエントリはどうでもよいので、ぜひ原文を読んでみてください(Google翻訳だけで十分読めます)。

ちなみに、このブログがあるのはポールグレアムが私にLispを植え付けたからです。


But while you need boldness, you don’t usually need much planning.

しかし、大胆さは必要だが、通常、計画性はあまり必要ではない。

Planning per se isn't good. It's sometimes necessary, but it's a necessary evil

計画そのものは良いことではありません。計画は必要な場合もありますが、それは必要悪です。

The core of being earnest is being intellectually honest.

真摯であることの核は、知的に正直であることだ。

that the main ingredient in artistic elegance is mathematical elegance.

芸術的な優雅さの主な要素は数学的な優雅さであるということです。

Whereas some of the very best work will seem like it took comparatively little effort, because it was in a sense already there.

一方、最高の作品のいくつかは、ある意味ですでにそこにあったため、比較的労力がかからなかったように見えます。

Great work will often be tool-like in the sense of being something others build on.

優れた作品は、他の人が構築するという意味でツールのようなものです。

Originality isn't a process, but a habit of mind.

独創性はプロセスではなく、思考の習慣です。

Original ideas don't come from trying to have original ideas. They come from trying to build or understand something slightly too difficult.

独自のアイデアは、独自のアイデアを持とうとしても生まれません。少し難しすぎるものを構築または理解しようとすることで生まれます。

People think big ideas are answers, but often the real insight was in the question.

人々は、大きなアイデアは答えであると考えています。しかし、本当の洞察は質問の中にある場合が多かったのです。

A really good question is a partial discovery.

本当に良い質問とは、部分的な発見です。

there's probably no better source of questions than the ones you encounter in trying to do something slightly too hard.

ちょっと難しいことをやろうとするときに遭遇する疑問ほど、良いものはないだろう。

in fact schools have all sorts of strange qualities that warp our ideas about learning and thinking.For example, schools induce passivity.

実際、学校には学習や思考に関する私たちの考えをゆがめる、さまざまな奇妙な性質がある。例えば、学校は受動性を誘発する。

Originality is the presence of new ideas, not the absence of old ones.

オリジナリティとは、新しいアイデアの存在であり、古いアイデアの不在ではない。

the features that are easiest to imitate are the most likely to be the flaws.

真似するのが最も簡単な特徴は、欠点である可能性が最も高いのです。

learn to distinguish good pain from bad. Good pain is a sign of effort; bad pain is a sign of damage.

良い痛みと悪い痛みを区別することを学んでください。良い痛みは努力の兆候であり、悪い痛みは損傷の兆候です。

Ultimately morale is physical. You think with your body, so it's important to take care of it. That means exercising regularly, eating and sleeping well, and avoiding the more dangerous kinds of drugs. Running and walking are particularly good forms of exercise because they're good for thinking.

結局のところ、士気は身体的なものです。あなたは自分の体で考えるので、体を大切にすることが重要です。つまり、定期的に運動し、よく食べてよく眠り、より危険な種類の薬物を避けるということです。ランニングとウォーキングは、考えるのに良いので特に良い運動です。

Tags: 日記,

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人を動かす

先日、とある記事のタイトルをみて、久しぶりにワタミ構文を思い出しました。

その構文とは「無理というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんです。途中で止めなければ無理じゃなくなります」です。

言わば「成功するまでやり続ければ失敗は存在しない」の亜種です。

こういった言説はよくブラック企業の経営者などから発せられます。

従業員を馬車馬のようにこき使うための方便と捉えられ、ネット上では過労死を生むブラック経営の代表的な思想として定着しています。

私も実際に他人から同じようなことを言われたら、村上龍と同じように「???」となるでしょう。

しかし、該当記事を読んでいて、少し違った目線でその発言の意味を再考してしまいました。

他人に対して「無理と思うから無理、やれば無理じゃなくなるから、やれ」というのはただの無茶振りです。

しかし、自分が自分に対して洗脳する分には割といいメソッドなのではないか?と思い至りました。

このブログは月一のノルマを自分に勝手に課して細々と更新し続けています。

その結果、100記事以上も文章が溜まってしまいました。

これだけたくさん書いていると、ほぼ毎月、「そろそろ何か書かなきゃ」と思っても「もう書くことなんてない」となりがちです。

それでも今のところはまだ文章をなんとか捻り出せています。

やる前は「無理」と思っていても、実際に書ききった結果は「無理じゃなかった」のです。

そういった実際の自分の経験から自己洗脳メソッドも良いではないのか?と思った次第です。

それはそうと、一切体調を崩したりしないし、いつ会ってもいつも通りの感じで接してくれるような体力オバ……優秀な人が身の周りにちらほらいます。

例えば、自分が通っている歯科医は院長先生によるワンマン体制です。

助手や歯科衛生士、事務、受付の人はもちろん別にいますが、歯の治療を行うのは院長先生一人だけです。

ということは院長先生が病欠したら、その日の予約は全て台無しになってしまいます。

しかし、私はその歯科医に10年ほど通っていますが、今まで一度たりとも院長先生が欠勤した日に遭遇したことがありません。

そういった、対人商売の自営業の人だったり、社長という人種は特に体調を崩さないし、体力に満ち溢れている人が多いと思います。

逆に、安定した職場の従業員などはすぐに体調を崩して気軽に欠勤してしまうイメージですし、自営業(not フリーランス)や社長をやっている人で、低気圧で泣き言を言っている人も見たことがありません。

こういった多少の無理を押し通して安定したパフォーマンスを出し続けられる人と、すぐに無理を受け入れてしまいパフォーマンスにばらつきが出てしまう人との違いはどこにあるのでしょうか?

それは体調を崩すことを現実が許してくれるかくれないかの違いです。

先ほどの歯科医の先生が体調を崩せば、その日の営業ができなくなり、ものすごい損失が発生します。

かたや、雇われの従業員は有給を消化すればいいだけで、致命的な損失が発生することはほぼありません。

しかし、従業員側でもソーシャルワーカーなどで自分がいなければ業務が全く回らなくなるような人は体調を崩せない側です。

このように、人ではなく現実が「やれば無理じゃなくなるから、やれ」と号令を出してくるのです。

それを履行しているうちに「無理じゃなかったって事です。実際にやったのだから。『無理』という言葉は嘘だった。しかし現実としてやったのですから無理じゃなかった。その後はもう『無理』なんて言葉は言わせません」となるのです。

他人からも現実からもせっつかなければ、あとは自分で自分に言い聞かせて追い込むしか「無理」を打ち負かす方法はありません。

やらないのとやるのとでは雲泥の差がありますから、やるに越したことはありません。

大抵のことはできないよりできた方が良いに決まっています。

逆に、他人からだろうが現実からだろうが自分自身からであろうが、自分をある程度洗脳して、無理を押し通せないと結果を出し続けることは難しいのです。

アマチュアであれば瞬間火力が高いだけでも評価されますが、世のほとんどのプロは継続性を一番に求められます。

ですので、火力の爆発力ではなく、安定した成果を出し続けなければならず、時折訪れる多少の無理は押し通せなければいけません。

野球ではバイオリズムが低い状態の対策ができない人は一軍のレギュラーになれません。

ここまで書いてきて、なぜ成功者の人たちがワタミ構文を使いがちなのかが分かりました。

それは現実が思考化しているからです。

自分がそれを成してきたから思考もそうなるのです。

ただ、「無理じゃなくなるまで無理を通す」には、自分をそういった現実に晒すか、生まれ持った才能が必要となります。

コンフォートゾーンの話でも書いた通り、自分で自分を洗脳するにはそれなりの才能が必要です。

しかし、もう一つ、無理を押し通してくれる力を授けてくれる存在がいます。

それはカリスマです。

現実に追い込まれなくても、自分で自分を洗脳できなくても、カリスマならあなたを洗脳してくれる可能性があります。

冒頭のワタミ会長の言葉も9割方は「何言ってんだこいつ」となりますが、1割の人の心には響いているのです。

ですから企業はそれなりに大きく成長しましたし、当人を尊敬している人も少なからずいるでしょう。

「人を動かす」正体はここに隠れています。

カリスマ性とはいわば「いかに他人から言われたからではなく、自分の中から湧いてきたものだと錯覚させられる能力」なのです。

つまり、他人からの発言はただのトリガーであり、それがきっかけで、あたかも自分の中で眠っていた神経回路が繋がって覚醒したかのような感覚を感じれば、それは他人からの命令ではなく自分の中から湧き出てきた能動的な動機となるのです。

私が「やればできる」と言っても誰もやらないですが、ティモンディ高岸が「やればできる」と言えば、少なくとも私が言う以上に「やってみたらできた」人が生まれることでしょう。

この差がカリスマ性です。

ですので、人が人を動かそうとする時に一番必要なのは、肩書きでも知力でもなく経験の豊富さでもなく、本人が内包するカリスマ性なのです。

私は人が人の上に立つ上で一番必要な能力はカリスマ性だと思っています。

バカでノロマでマヌケでも、人を惹きつける圧倒的魅力があれば、それだけで十分です。

自分ができなくてもできる人にやって貰えばいいだけですから。

逆に、賢くて俊敏で要領が良くても、人を魅了できなければ、誰もあなたに付いてきません。

ITのスタートアップ系の企業だと予め会社と同じビジョンを持った人を選別して採用するのがメジャーですが、カリスマ中小企業経営者であればビジョンをあたかも最初から自分が持っていたかのように植え付けることができるのです。

ワタミの会長もきっとそう言った類の人なのでしょう。

10人に一人でも100人なら10人、1000人なら100人を魅了する事ができるのですから。

逆に、ルールや取り決めをいくら作っても形骸化してしまいがちなのは、ルールや規則が悪いのではなく、ルールや取り決めを作った人たちや施行する人たちにカリスマ性がないからなのです。

Tags: 社会, 仕事,

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有知蒙昧

タイトルだけだと内容が分かりづらいので、最初に書いておくと、今回は多様性とエコーチェンバーのお話です。

今でこそ多様性という言葉は割と日常的に使われていますが、一昔前まではそんな言葉はほとんど使われていなかったと思います。

お台場にあるダイバーシティが竣工したのが10年ちょっと前で、その辺あたりから多様性に対する認知が広まっていったような気がします。

多様性を英語にするとダイバーシティなんですが、ダイバーシティと聞いてみんなが思い描くのはお台場のそれだと思います。

ダイバーシティのスペルはdiversityですが、お台場にある方はDiverCityでスペルをもじったネーミングとなっています。

それはさておき、それ以前、20年以上前になってくるとLGBTなんて言葉もありませんでした。

レズやゲイはありましたが、バイやトランスジェンダー(某学園ドラマで上戸彩がトランスジェンダーを演じていましたが、その時の呼称は性同一性障害)の認知度はほとんどなかったと思います。

このように昔に比べて今の方が世間一般に浸透している言葉の数や認知量が増えているのは確かです。

LGBTもLGBTQになり、LGBTQ+と無限増殖していっています。

しかし、実態としての多様性についてはむしろ減少しているような気がしてなりません。

多様性にまつわる語彙は置いておいて、明らかに昔の方が種々雑多な人々が自分の周りにいたような気がします。

自分が子供の頃は、自分と同じ年代の人たちも周りの大人たちも、良い悪いに関わらず(悪い方が多かったかも)一人ひとりのクセやアクが強かったと、今の人たちと比べて感じます。

具体的なクセやアクがなんなのかを書きたいところですが、コンプライアンスの観点からここでは書き控えさせていただきます。

そう、コンプライアンスなんて物言いも昔はありませんでした。(ガバナンスはあったかも?)

人々だけでなく建物もそうです。

昔は地域ごとに特色がありましたが、現代では個人商店は数を減らし、画一化された商業施設に置き換わっていっています。

駅ビルは一様にatreになり、ショッピングモールに入居しているテナントはどこも似たり寄ったりです。

みんなが多様性について過敏になっているのは、そういった画一化されていく時代の変化に対するカウンターカルチャーなのかもしれません。

満たされている人がことさら何も求めないように、その要素が欠乏しているからこそ渇望が生まれるのです。

逆に昔は、今と比べて、おおらかというか、適当というか、雑というか、不統一というか、無茶苦茶というか、不法状態というか……まぁ、色々フリーダムだったので多様性を認識する必要がないほど多様性に溢れていたのです。

多様性が実態から概念にシフトし、その概念が言葉に押し込められ、言葉が増えた分、実態はおざなりになり、むしろ認知の見える化が分断を加速させています。

グレーでなぁなぁに済ましていたところを白黒はっきりさせてしまえば、正誤や善悪の審判を否応なく下されてしまうのです。

語彙力や言語化を持て囃す風潮がありますが、言葉はしょせん言葉でしかなく「世界平和」といくら喚いたところで、地球上から紛争がなくなることはありません。

ここまでは実態の多様性と概念の多様性がトレードオフになっているのでは?という仮説の話でした。

もう一つ、ここからが本題なのですが、現代の情報社会では多様性の認知量が逆に多様性を狭めている現象がある、と私は考えています。

次の図を見てください。

【図1】

円の範囲が認知量で点が認知要素です。

Aであれば、認知範囲に要素が一つしかないので、多様性の前にそれはそういうものだと決めつけてしまうかもしれません。

最初に入った会社の常識を社会全体の常識と思い込んでしまうやつです。

だからこそ会社は新卒を採用して云々……の話は割愛します。

BやCであれば認知量が少ないので、自分の未熟さや無知の知に思いを馳せることができるでしょう。

問題はDです。

他三つに比べて認知量が多いため、自分は物知りだという驕りが発生しやすくなります。

当然、図に描いてあるとおり、いくら認知点が多いといっても、認知円の外にも無限の認知点が存在しますし、他の人の認知量が少ないとしても、それが自分の認知外の新しい認知要素であるかもしれないのです。

ですので、自分がみんなよりも多様性の理解者である自己認識を持つのは間違いなのです。

そして、さらに人間は似たもの同士が集まりますから、自分の周りの人たちと知識を共有しても結局は自分の認知円の中の点が増えていくだけです。

そうなれば驕りはさらに加速していきます。

現代ではそういった現象を指してエコーチェンバーと呼んでいます。

多様性はむしろ視野を狭くしてしまうのです。

LGBTQ+だってジェンダーの多様性をいくら担保しようとも、オスとメスが性交しなければ基本的に子孫を残せない点において、視野の狭い問題にすぎません。

無知蒙昧という言葉がありますが、現代では逆に、知識があればあるほど蒙昧にさせられる孔明の罠が至るところに仕掛けられているのです。

最後に、あまり声高には言いたくないのですが「科学的」もここでいう認知円の一つにすぎないのです。

Tag: 社会

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