自分と世界の差分を埋める過程が成長
一般的に成長と言えば、何かしらの能力が向上することをイメージすると思う。
しかし、現役のみんながいくら成長成長と躍起になったところで、最後に訪れるのは引退である。
もし人間が本当に成長し続けられるのなら、人生100年時代も余裕だし少子高齢化も無問題だ。
だが現実は見ての通りである。
成長は無条件で良いこととされており、そのためにたくさんの人が努力をしている(ように見える)。
ある人は体を鍛えているし、ある人は知識を蓄えようとしている。
またある人は自分が扱っている仕事について業務遂行能力を上げようとしている。
そういった、体力、頭脳、業務力を身につけることは成長の一つではあると思う。
しかし、成長の本質は能力の向上ではないと思う。
体を鍛えるにしても、知識を増やすにしても、仕事の能力を高めるにしても、そのこと自体は目的ではなくただの手段でしかない。
例えば、自分が滅茶苦茶トレーニングをして、何故か100メートルを10秒以下で走れるようになったとしても、それには何の意味もない。
まず、自分は陸上選手じゃないので、それを披露する場面もないし、そもそも陸上選手になりたいとも思わない。
そうであれば100メートルを9秒台で走れても、世界にとっては存在しないのと同義である。
自分の外に向かない能力がいくら向上したとて、他人や世界に影響を与えないのであれば、それは無と変わらない。
もっと分かりやすく、仕事で例えるなら、自分で勝手にTOEICで900点を超えたとしても、会社がそれを求めていなければ、それは成長とは呼ばない。
仮に転職をして英語の語学力が役に立つ仕事に就いたとしても、そうなるまではTOEICの点数はただの宝の持ち腐れでしかない。
「いやいや、語学力を身につけて成長したらから転職できたんじゃん」と思うかもしれない。
しかし、40年近く生きてきた私からすれば、能力を身につけるよりも、その能力を生かせる環境に自らの身を置くことのほうが難しい気がする。
「TOEICで900点です!」だけで採用を決める企業など存在しない。
私自身も20年以上前に独自ドメインを取ってメールサーバーを自宅に構築し、そこで発行した独自ドメインのアドレスを履歴書に記載して就活をしていたが、IT業界に就職することはできなった。(今ならクラウドで全部簡単にできるが昔はそうではなかった)
だから転職においては自分の能力だけでなく、それ以外の何かがあなたに宿っていたから採用されたのだ。
適材適所と口で言うのは簡単だが、自分の才能など自分でも分からない場合が多いのに他人からすればもっと分からない。
単刀直入に言えば、物事はやってみなければ、その結果は分からない。
自分の才能を見出すのすらままならないのに、その中でさらに自分の能力に適用した環境に身を置けること自体、ただの幸運の賜物であったりする。
実は、自分が天職に就けること自体がまれで、ほとんどの人は自分の才能も分からないし、才能を認識できてもその業界に潜り込めるとも限らず、そもそも何の才能もないかもしれない中で、必死にもがきながら、騙し騙しやっているだけなのかもしれない。
ある程度の能力はある程度の努力で身につけることができるが、それを活かす環境を創造するには経営の才覚が必要である。
例えば、私はある程度の言語化能力を有しているが、別にそれを活かしてお金を稼げているわけではない。
凡夫である我々は、速く走れるようになる努力やトレーニングはできるが、それを活かすためにオリンピックのような興行を起こすことまではなかなかできない。
そういった意味で「成長」とは決められた枠組みが最初にあり、その中でどのように自分を変えていけるかが、その本質となる。
野球というスポーツとしての枠組みがあるからこそ一心不乱にバットの振り込みができる。
自分が経営者だったり、興行を創造するような人であったり、社会の枠組みそのものを創造できる人間であるならば、すべての能力向上は即成長であるが、そうでない人は、あらかじめ存在している枠組みの中で自分を変えていくしかない。
だから、ほとんどの人にとっての成長は能力の向上ではなく、環境に対する適応なのである。
原始時代であれば身体能力の向上イコール成長ということになるが、現代では一概にそうとはならない。
プロスポーツ選手以外の人が身体能力の向上を目指していても「何かの大会でるの?」と思われるぐらいである。(とはいえ現代でもフィジカルの強化はどの仕事に就ているにしても大事)
あなたが営業であれば契約件数を増やすことが成長であり、どこかしらの店長であるならば売り上げを伸ばすことが成長である。
不動産営業の人が秘伝のラーメンダレを開発しても、牛丼屋の店長がプログラムを書けるようになったとしても、それは成長ではなく、ただの趣味でしかない。
今目の前にある課題と向き合い、その課題を解決することが成長となる。
だから成長は向上と言うよりは適応なのだ。
自分と自分の置かれている今の環境を比較して、その差分を埋める過程が結果として成長と呼ばれる概念に昇華する。
野球選手はバットでボールを上手く打つほど周りの環境が良くなる(チームの勝率が上がる)からバットの振り込みをするのだ。
そこでリフティングに打ち込んでサッカーの技術を向上させても、そんなものを成長と認めてくれる人など誰もいやしない。
自分と自分を取り囲む世界から逆算して今の自分がより良くなるように、自分を変えていく作業が成長なのである。
ところで、いろんな現場で仕事をしていると、稀によく、すごく受動的に仕事をしている人に出会う。
そういった人たちは、他人からの指示を絶対条件として、それを満たすことを金科玉条としている節がある。
全体的な仕事の成果には目を向けずに指示の遂行に全精力を注いでいる。
上司が完璧超人か工場作業ならそれで正しいが、ゴールが不確定な仕事においては能動的な動きも求められる。
今までの話でいうと、自分と環境の差分を認識し、その認識を埋める作業を怠っている。
それを無視して、盲目的に頑張るだけの姿勢に対してまで成長という概念と結びつけるのはどうかと思う。
ちゃんと自分の判断軸を持ち、自分の周りの環境(世界)を認知した上で、そのずれを正していくことを、みんなや社会は求めているのだ。
ストレートの質が良くて球速も球界最速レベルの人がさらに球速を突き詰めたところで、コントロールが悪ければプロの世界では使ってもらえない。
逆に能力の向上を伴わなくとも、自分を取り囲む環境に適応していくことこそが成長に繋がる。
球速が遅くとも、変化球を増やしたり、ボールのキレを磨いたり、間合いの取り方、ピッチングフォームなど、いろんな試行錯誤を重ねれば、それが成長となって熟年になってもプロで活躍し続けられるようになる。
子供が道路に転がっていったボールを全力で追いかけることを躊躇するようになったり、大声で泣き叫ばなくなっていくのは、人間社会における適応である。
能力のセーブを学習することも成長の一つの形だ。
馬鹿の一つ覚えみたいに、何かしらの能力の向上だけを目指して頑張ったり努力したりするのは意識が高いのではなく、意識が細いだけだ。
あえて出力を抑えた方がうまくいくケースも往々にして存在する。
環境に合わせて力の匙加減を調整して、出力をコントロールできるようにするのが本当に目指すべき成長なのだ。
バントを決めるのにホームランを叩き込むほどの筋力は不要なのだから。
最後に、視座をものすごく高くして表現するなら、老人が徐々に衰弱していくのは死に対する適応、すなわち成長と捉えることもできる。
そして、その文脈でみれば、じつは後期高齢者医療はグランドフィナーレに向けた準備を阻害しているだけなのかもしれない。
How To Do Great Work
上記のポールグレアムのエッセイがとても良い文章だったので、メモがわりに気に入った文章を引用してここに置いておきます。
このエントリはどうでもよいので、ぜひ原文を読んでみてください(Google翻訳だけで十分読めます)。
ちなみに、このブログがあるのはポールグレアムが私にLispを植え付けたからです。
But while you need boldness, you don’t usually need much planning.
しかし、大胆さは必要だが、通常、計画性はあまり必要ではない。
Planning per se isn't good. It's sometimes necessary, but it's a necessary evil
計画そのものは良いことではありません。計画は必要な場合もありますが、それは必要悪です。
The core of being earnest is being intellectually honest.
真摯であることの核は、知的に正直であることだ。
that the main ingredient in artistic elegance is mathematical elegance.
芸術的な優雅さの主な要素は数学的な優雅さであるということです。
Whereas some of the very best work will seem like it took comparatively little effort, because it was in a sense already there.
一方、最高の作品のいくつかは、ある意味ですでにそこにあったため、比較的労力がかからなかったように見えます。
Great work will often be tool-like in the sense of being something others build on.
優れた作品は、他の人が構築するという意味でツールのようなものです。
Originality isn't a process, but a habit of mind.
独創性はプロセスではなく、思考の習慣です。
Original ideas don't come from trying to have original ideas. They come from trying to build or understand something slightly too difficult.
独自のアイデアは、独自のアイデアを持とうとしても生まれません。少し難しすぎるものを構築または理解しようとすることで生まれます。
People think big ideas are answers, but often the real insight was in the question.
人々は、大きなアイデアは答えであると考えています。しかし、本当の洞察は質問の中にある場合が多かったのです。
A really good question is a partial discovery.
本当に良い質問とは、部分的な発見です。
there's probably no better source of questions than the ones you encounter in trying to do something slightly too hard.
ちょっと難しいことをやろうとするときに遭遇する疑問ほど、良いものはないだろう。
in fact schools have all sorts of strange qualities that warp our ideas about learning and thinking.For example, schools induce passivity.
実際、学校には学習や思考に関する私たちの考えをゆがめる、さまざまな奇妙な性質がある。例えば、学校は受動性を誘発する。
Originality is the presence of new ideas, not the absence of old ones.
オリジナリティとは、新しいアイデアの存在であり、古いアイデアの不在ではない。
the features that are easiest to imitate are the most likely to be the flaws.
真似するのが最も簡単な特徴は、欠点である可能性が最も高いのです。
learn to distinguish good pain from bad. Good pain is a sign of effort; bad pain is a sign of damage.
良い痛みと悪い痛みを区別することを学んでください。良い痛みは努力の兆候であり、悪い痛みは損傷の兆候です。
Ultimately morale is physical. You think with your body, so it's important to take care of it. That means exercising regularly, eating and sleeping well, and avoiding the more dangerous kinds of drugs. Running and walking are particularly good forms of exercise because they're good for thinking.
結局のところ、士気は身体的なものです。あなたは自分の体で考えるので、体を大切にすることが重要です。つまり、定期的に運動し、よく食べてよく眠り、より危険な種類の薬物を避けるということです。ランニングとウォーキングは、考えるのに良いので特に良い運動です。
人を動かす
先日、とある記事のタイトルをみて、久しぶりにワタミ構文を思い出しました。
その構文とは「無理というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんです。途中で止めなければ無理じゃなくなります」です。
言わば「成功するまでやり続ければ失敗は存在しない」の亜種です。
こういった言説はよくブラック企業の経営者などから発せられます。
従業員を馬車馬のようにこき使うための方便と捉えられ、ネット上では過労死を生むブラック経営の代表的な思想として定着しています。
私も実際に他人から同じようなことを言われたら、村上龍と同じように「???」となるでしょう。
しかし、該当記事を読んでいて、少し違った目線でその発言の意味を再考してしまいました。
他人に対して「無理と思うから無理、やれば無理じゃなくなるから、やれ」というのはただの無茶振りです。
しかし、自分が自分に対して洗脳する分には割といいメソッドなのではないか?と思い至りました。
このブログは月一のノルマを自分に勝手に課して細々と更新し続けています。
その結果、100記事以上も文章が溜まってしまいました。
これだけたくさん書いていると、ほぼ毎月、「そろそろ何か書かなきゃ」と思っても「もう書くことなんてない」となりがちです。
それでも今のところはまだ文章をなんとか捻り出せています。
やる前は「無理」と思っていても、実際に書ききった結果は「無理じゃなかった」のです。
そういった実際の自分の経験から自己洗脳メソッドも良いではないのか?と思った次第です。
それはそうと、一切体調を崩したりしないし、いつ会ってもいつも通りの感じで接してくれるような体力オバ……優秀な人が身の周りにちらほらいます。
例えば、自分が通っている歯科医は院長先生によるワンマン体制です。
助手や歯科衛生士、事務、受付の人はもちろん別にいますが、歯の治療を行うのは院長先生一人だけです。
ということは院長先生が病欠したら、その日の予約は全て台無しになってしまいます。
しかし、私はその歯科医に10年ほど通っていますが、今まで一度たりとも院長先生が欠勤した日に遭遇したことがありません。
そういった、対人商売の自営業の人だったり、社長という人種は特に体調を崩さないし、体力に満ち溢れている人が多いと思います。
逆に、安定した職場の従業員などはすぐに体調を崩して気軽に欠勤してしまうイメージですし、自営業(not フリーランス)や社長をやっている人で、低気圧で泣き言を言っている人も見たことがありません。
こういった多少の無理を押し通して安定したパフォーマンスを出し続けられる人と、すぐに無理を受け入れてしまいパフォーマンスにばらつきが出てしまう人との違いはどこにあるのでしょうか?
それは体調を崩すことを現実が許してくれるかくれないかの違いです。
先ほどの歯科医の先生が体調を崩せば、その日の営業ができなくなり、ものすごい損失が発生します。
かたや、雇われの従業員は有給を消化すればいいだけで、致命的な損失が発生することはほぼありません。
しかし、従業員側でもソーシャルワーカーなどで自分がいなければ業務が全く回らなくなるような人は体調を崩せない側です。
このように、人ではなく現実が「やれば無理じゃなくなるから、やれ」と号令を出してくるのです。
それを履行しているうちに「無理じゃなかったって事です。実際にやったのだから。『無理』という言葉は嘘だった。しかし現実としてやったのですから無理じゃなかった。その後はもう『無理』なんて言葉は言わせません」となるのです。
他人からも現実からもせっつかなければ、あとは自分で自分に言い聞かせて追い込むしか「無理」を打ち負かす方法はありません。
やらないのとやるのとでは雲泥の差がありますから、やるに越したことはありません。
大抵のことはできないよりできた方が良いに決まっています。
逆に、他人からだろうが現実からだろうが自分自身からであろうが、自分をある程度洗脳して、無理を押し通せないと結果を出し続けることは難しいのです。
アマチュアであれば瞬間火力が高いだけでも評価されますが、世のほとんどのプロは継続性を一番に求められます。
ですので、火力の爆発力ではなく、安定した成果を出し続けなければならず、時折訪れる多少の無理は押し通せなければいけません。
野球ではバイオリズムが低い状態の対策ができない人は一軍のレギュラーになれません。
ここまで書いてきて、なぜ成功者の人たちがワタミ構文を使いがちなのかが分かりました。
それは現実が思考化しているからです。
自分がそれを成してきたから思考もそうなるのです。
ただ、「無理じゃなくなるまで無理を通す」には、自分をそういった現実に晒すか、生まれ持った才能が必要となります。
コンフォートゾーンの話でも書いた通り、自分で自分を洗脳するにはそれなりの才能が必要です。
しかし、もう一つ、無理を押し通してくれる力を授けてくれる存在がいます。
それはカリスマです。
現実に追い込まれなくても、自分で自分を洗脳できなくても、カリスマならあなたを洗脳してくれる可能性があります。
冒頭のワタミ会長の言葉も9割方は「何言ってんだこいつ」となりますが、1割の人の心には響いているのです。
ですから企業はそれなりに大きく成長しましたし、当人を尊敬している人も少なからずいるでしょう。
「人を動かす」正体はここに隠れています。
カリスマ性とはいわば「いかに他人から言われたからではなく、自分の中から湧いてきたものだと錯覚させられる能力」なのです。
つまり、他人からの発言はただのトリガーであり、それがきっかけで、あたかも自分の中で眠っていた神経回路が繋がって覚醒したかのような感覚を感じれば、それは他人からの命令ではなく自分の中から湧き出てきた能動的な動機となるのです。
私が「やればできる」と言っても誰もやらないですが、ティモンディ高岸が「やればできる」と言えば、少なくとも私が言う以上に「やってみたらできた」人が生まれることでしょう。
この差がカリスマ性です。
ですので、人が人を動かそうとする時に一番必要なのは、肩書きでも知力でもなく経験の豊富さでもなく、本人が内包するカリスマ性なのです。
私は人が人の上に立つ上で一番必要な能力はカリスマ性だと思っています。
バカでノロマでマヌケでも、人を惹きつける圧倒的魅力があれば、それだけで十分です。
自分ができなくてもできる人にやって貰えばいいだけですから。
逆に、賢くて俊敏で要領が良くても、人を魅了できなければ、誰もあなたに付いてきません。
ITのスタートアップ系の企業だと予め会社と同じビジョンを持った人を選別して採用するのがメジャーですが、カリスマ中小企業経営者であればビジョンをあたかも最初から自分が持っていたかのように植え付けることができるのです。
ワタミの会長もきっとそう言った類の人なのでしょう。
10人に一人でも100人なら10人、1000人なら100人を魅了する事ができるのですから。
逆に、ルールや取り決めをいくら作っても形骸化してしまいがちなのは、ルールや規則が悪いのではなく、ルールや取り決めを作った人たちや施行する人たちにカリスマ性がないからなのです。