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カトリックな中小企業とプロテスタントな大企業

働き方に対してのノウハウはこの世に腐るほどあるが、世界中の全ての会社や組織に通用する万能的なノウハウは現実として存在しない。

何かビジネスハウツーを一般化していい感じに理論化したところで、それが通用するかもしれないのは実は一部だけで、大半は砂上の楼閣になる。

経済学や経営学や行動経済学が万能であるならドナルド・トランプがわざわざ関税戦争をふっかける事もなかった。

学問やハウツーは小乗的に一部のエリートは救うが、大乗的な衆生済度にはならない。

例えば「将来のために収入の1割は貯蓄にまわしましょう」と言ってみたところで、実際に実践できるのは一部の人だけである。

そもそも企業や会社は一つひとつ違っていて、国や地域により千差万別であり、それを十把一絡げに扱うのには無理がある。

しかし、そこで最近、一つ思い至ったことがある。

それは同業種でも中小企業と大企業とでは企業内倫理が根本的に違うということだ。

倫理観が根本的に違えば、当然中で働いている人たちの行動様式もまた変わってくる。

中小だと有能であったものが大企業だと無用の長物になったり、その逆もまた然りとなる。

比較的社員数が少ない企業であれば社長、経営陣と授業員は近い距離にあり、互いにやり取りをすることもあるし、お互いにどういうモノとナリの人間なのかを具体的に把握している。

社員数が十数人なのに、社長と話したこともなければ会ったこともない、なんてことはほぼあり得ないはずだ。

しかし、数千や数万単位の人員を抱える一大グループ化している企業の代表となってくるとそうもいかなくなる。

ユニクロの店舗スタッフのほとんどは柳井さんに会う事もないだろうし、ソフトバンクグループで働いている人もほとんどは孫正義さんをお目にかかる事もないだろうし、マイクロソフトに所属しているからといってビルゲイツとコンタクトできる人もほとんどいないだろう。

一人の人間が数千数万単位の人間を管理することはおろか、認知する事自体不可能である。

よって、必然的に組織がデカくなれば、その構造はピラミッド型になる。

コンウェイの法則ではないが、組織規模が変われば、そこで働く人たちの行動様式も変わってくるのである。

会社が小さければ小さいほど会社全体を把握できるが、それがどんどん大きくなるにつれて自分で観測できる範囲が狭まってくる。

携わる業務内容も携われる人も限定的になってくる。

そうなってくると、会社での行動指針が人中心から規範や社風中心にシフトしてくことになる。

プロジェクトや会社の規模が大きいと、煩わしい手続きや存在理由のよく分からない書類も増えてくるが、それを取り扱う人たちはそれ自体がどういった経緯で発生したものなのかは案外知らないし、その意味を追求することもあまりしない。

「規則(ルール)で決まってるから」という常套句で規範に則って淡々と仕事を進めていく様は、まさに行動様式が人中心から外れて、より大きい何かに置き換わっている証左である。

このように社長や経営者に直接アクセスできなくなる末端社員にまで統率を求めるなら、規範や社風などの共同幻想を使って個人個人のマインドに働きかけるしかない。

大人数を束ねて組織を運営するには個人の能力ではなく規範や社風の存在が必要となる。

ビルゲイツが末端のカスタマーサポートの個人に対して作業指示をすることはもちろんなく、そのカリスマ性で人心掌握をすることもほぼ不可能である。

人が中心であるうちは人間個人の能力やカリスマ性がそのまま仕事の質に直結する。

しかし、会社の規模が大きくなると、仕事を進めていく力学が個人の「点」から、人と人との関係の「線」や「面」に多次元化していく。

この力学の変化により個人に求められる資質も変化する。

いくら個人の実務能力が高くても規範やカルチャーに合わせることができないのであれば、一部の天才を除き、同じようにやっていくことは厳しくなるだろう。

小規模組織では朝に弱くても目をつむってくれるかもしれないが、大組織だとそうもいかない。

こういった具合に発生した、個人に求められる資質の変化は宗教における宗派の派生、すなわち分派に近いものがある。

仏教だってより多くの人へ思想が波及していったからこそ、小乗(上座部仏教)では収まらずに大乗として溢れて、全世界に広がっていった。

小乗から大乗に分派していなければ、そもそも日本に伝来する事もなかったかもしれない。

派生元が同じとはいえ小乗と大乗では、根本的な考え方が違う。

大乗ではあまねく衆生を救済しようとしているのに対し、小乗では己自身のみが解脱を目指すのである。

このように同じ宗教でも派閥が違えば、その行動様式も変容する。

ここまでの話を前提とした上で、中小企業と大企業はそれぞれカトリックとプロテスタントの違いに近いイデオロギーの相違があるようにみえる。

中小企業は人を中心とした行動様式であり、神や教皇を中心とした権威主義であるカトリックに近く、大企業は規範や社風を中心とした行動様式であり、信仰の中心を聖書に委ねているプロテスタントに近いものがある。

カトリックの総本山であるバチカン市国があるヨーロッパはサッカーやブランド品などクラフトマンシップを中心にしているイメージがある。

一方、プロテスタントの国であるアメリカ(大統領は聖書を片手に置いて就任を宣誓する)はルールや規範を厳密に定義し、上下関係も厳しく、規律を中心に動いている。

どちらも同じキリスト教ではあるが、先ほどの大乗と小乗の違いのように、宗派が違えば考えも行動も変わるのである。

そういった意味で中小のうちにプロテスタント的なイデオロギーを取り入れたり、大企業なのにカトリック的に振る舞うのには無理があるのかもしれない。(そういった組織と思想の不整合がイノベーションのジレンマとして表出する)

創業時の創業者は教祖的な立ち位置となり、カトリック的に組織を運営していく。

そこから、数千数万の人員を抱えるコングロマリットに至れた企業は、その過程でプロテスタントに改宗してしまうのだ。

逆に、その過程でルターやカルヴァンのような改革者や改革が発生しなければ大企業に至れないのだ。

松下幸之助や井深大、盛田昭夫がいた時代は彼らを中心に会社が栄えたが、彼らのいない現代でも、パナソニックやソニーは大企業として君臨し続けている。

大企業として存続し続けているということは創業者のカリスマ性ではなく、そこから派生して生み出された規範や社風が社内を律し続けているのだろう。

創業者が有能でもプロテスタントに改宗できな(かった)い企業は一代で途絶えるか中小企業として細々と生き続けることになる。

何か小難しい話を長々書いてきたが要は、同じ職種でも中小企業と大企業ではそもそも宗派が違うので、自分の思想に合う宗派の規模の会社を選びましょうね、という話である。

そして、ずっと同じ組織に所属していても、零細企業から大企業に成長してしまったのなら、その過程であなたは改宗を受け入れるか、自分の思想を保つために離脱するかの決断を強いられる時がくる。

自分の好きを仕事にしたところで職場の人間が全員異宗派なら仕事の前に音楽性の違いで疲弊し、長く続けることはできなくなるのだから。

Tags: 社会, 仕事

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作業者Xの献身

タイトルだけだとなんの話か分からないので、最初に書いておくと今回はantiタスク分解論の続きの話になります。

当該記事ではタスクを分割することで発生する弊害について書きました。

その時の要点が

  • 全体を分割すると抜け落ちが発生する
  • 分解されたタスクだけにしか目が向けられず全体を俯瞰できなくなる

の2点でした。

今回は、そこからさらに掘り下げて、タスク分割におけるデメリットを追加で紹介したいと思います。(「タスクを分割するな」とは言ってません)

まずは下図をご覧ください。

【図1】

作業者Xが一人で全てのタスクを担う場合と、作業者X、作業者Y、作業者Zの3人にタスクを分割した場合の図です。

そして、システムの単一障害点(single point of failure)が存在するとして、そこを赤い点で表しています。

右図だと作業者Zのタスク領域に単一障害点が存在することになります。

左図において作業者Xが一人でタスクをこなしている場合、単一障害点の発見も容易ですし、対応も(解決できる能力があれば)自分自身だけで完結できます。

しかし、タスクが分割されており担当者もそれぞれ別だと、障害点の究明と対応の難易度が高くなります。

まず、障害点の究明についてです。

自分一人で全域を網羅できていれば、問題を特定するのは(特定できる能力があれば)容易いです。

しかし、自分の範囲外に問題の原因があるとすれば、問題の特定は困難を極めます。

自分の家の中でどこに財布を置いたのか忘れるのと、旅先でいつの間にか財布を無くした場合の財布の生存率ぐらい違います。

作業が分担されている場合、自分の範囲内の問題なのか自分の範囲外の問題なのか、ここの切り分けにまず労力がかかります。(自分の範囲内の問題なのに他人のせいにしたり、自分の範囲外の問題なのに自分の範囲内だけで解決しようと時間を浪費したりしがちです)

そして、自分の範囲外に問題があると確信を得られれば、次は自分の範囲外のタスクについて情報を得る必要が出てきます。

ついで、自分の状況と他人のタスクのそれぞれの情報から障害点を推定する作業が発生します。

障害はどのタスクに依存していて、かつ、そのタスクの担当者は誰なのかも把握できないと、対応にあたることができません。

さらに、他人のタスクに関しては自分の守備範囲外ですから、その部分の情報に関しては自分の知見ではなく、既存のドキュメントや別の作業者から引き出した情報から推測するしかありません。

この場合、自分の作業から生み出される知見を頼ることはできず、編集された情報である他人からの伝聞を頼りにするしかありません。

人間、実際に自分でやった経験は有用な知見や技術として活かせますが、経験の伴わない情報は実務においてあまり頼りになりません。

自転車についていくら知識を得たところで、実際に乗れるようになるには乗るしかないのと同じように。

ただの伝聞でしかない知識より経験から得た知見の方が有用で、作業を分担するほど、個人個人の知見は縮小してしまいます。

そして、障害点の究明ができたとして、次は障害に対応しなければなりません。

自分の担当分に原因がなくても、単一障害点を除去しなければ自分のタスクを遂行できないのであれば問題を解決するしかありません。

タスクは分割できてもシステムは分割できないのです。(マイクロサービス?何それ?おいしいの?)

ですので、タスクを細切れにして対応範囲を限定的にしているのにも関わらず、自分のタスク外に問題の原因があれば、その部分についても追加で対応しなければなりません。

以前の記事の終わりにも書きましたが、工場のように完全な分業制になっていればそういった問題は起きません。

ベルトコンベアーで流れてくる刺身の上にタンポポを乗せる作業者は、刺身の具や量が違っていても、タンポポを乗せ続けるだけです。(もしくはただ弾くだけ)

商品の検品はまた別の工程としてちゃんと分割されているわけですから、タンポポの人が刺身の不良を気にする必要はありません。

ですが、組織に所属する会社員が知的労働として仕事に取り組んでいる場合、自分のタスクは何かしらの外的要因に依存しているはずです。

自分の作業が自分一人だけで1から100まで完遂できるのは、バイトのような単純作業か自営業で自分一人で切り盛りしている場合ぐらいです。

よって、大体のホワイトワーカーは、他人の担当範囲のタスクについて調整する作業が発生します。

そうなってくると、昔書いたタスク分割コストが牙を剥いてきます。

作業分担して効率よく終わらせるはずが、逆にコストがモリモリになって工数も時間もよりかかってしまうようになるのです。(最近はむしろ、大企業はコストをあえてモリモリにすることで達成感という餌を撒きながら人間を畜産している気がしないでもないです)

コンウェイの法則とマイクロサービスで書いた通り、サービスやシステムにとどまらず、タスクの分割一つとっても、その効率性は組織構造やその質に依存するのです。

数人のスタートアップでのタスク分担とグローバル大企業におけるタスク分担とでは、その質も内容も難易度も、なんならやりがいさえも全く別物となるでしょう。

作業者Xの献身が必要な時点で、その組織はイノベーションのジレンマに囚われているのです。

Tag: 仕事

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自分と世界の差分を埋める過程が成長

一般的に成長と言えば、何かしらの能力が向上することをイメージすると思う。

しかし、現役のみんながいくら成長成長と躍起になったところで、最後に訪れるのは引退である。

もし人間が本当に成長し続けられるのなら、人生100年時代も余裕だし少子高齢化も無問題だ。

だが現実は見ての通りである。

成長は無条件で良いこととされており、そのためにたくさんの人が努力をしている(ように見える)。

ある人は体を鍛えているし、ある人は知識を蓄えようとしている。

またある人は自分が扱っている仕事について業務遂行能力を上げようとしている。

そういった、体力、頭脳、業務力を身につけることは成長の一つではあると思う。

しかし、成長の本質は能力の向上ではないと思う。

体を鍛えるにしても、知識を増やすにしても、仕事の能力を高めるにしても、そのこと自体は目的ではなくただの手段でしかない。

例えば、自分が滅茶苦茶トレーニングをして、何故か100メートルを10秒以下で走れるようになったとしても、それには何の意味もない。

まず、自分は陸上選手じゃないので、それを披露する場面もないし、そもそも陸上選手になりたいとも思わない。

そうであれば100メートルを9秒台で走れても、世界にとっては存在しないのと同義である。

自分の外に向かない能力がいくら向上したとて、他人や世界に影響を与えないのであれば、それは無と変わらない。

もっと分かりやすく、仕事で例えるなら、自分で勝手にTOEICで900点を超えたとしても、会社がそれを求めていなければ、それは成長とは呼ばない。

仮に転職をして英語の語学力が役に立つ仕事に就いたとしても、そうなるまではTOEICの点数はただの宝の持ち腐れでしかない。

「いやいや、語学力を身につけて成長したらから転職できたんじゃん」と思うかもしれない。

しかし、40年近く生きてきた私からすれば、能力を身につけるよりも、その能力を生かせる環境に自らの身を置くことのほうが難しい気がする。

「TOEICで900点です!」だけで採用を決める企業など存在しない。

私自身も20年以上前に独自ドメインを取ってメールサーバーを自宅に構築し、そこで発行した独自ドメインのアドレスを履歴書に記載して就活をしていたが、IT業界に就職することはできなった。(今ならクラウドで全部簡単にできるが昔はそうではなかった)

だから転職においては自分の能力だけでなく、それ以外の何かがあなたに宿っていたから採用されたのだ。

適材適所と口で言うのは簡単だが、自分の才能など自分でも分からない場合が多いのに他人からすればもっと分からない。

単刀直入に言えば、物事はやってみなければ、その結果は分からない。

自分の才能を見出すのすらままならないのに、その中でさらに自分の能力に適用した環境に身を置けること自体、ただの幸運の賜物であったりする。

実は、自分が天職に就けること自体がまれで、ほとんどの人は自分の才能も分からないし、才能を認識できてもその業界に潜り込めるとも限らず、そもそも何の才能もないかもしれない中で、必死にもがきながら、騙し騙しやっているだけなのかもしれない。

ある程度の能力はある程度の努力で身につけることができるが、それを活かす環境を創造するには経営の才覚が必要である。

例えば、私はある程度の言語化能力を有しているが、別にそれを活かしてお金を稼げているわけではない。

凡夫である我々は、速く走れるようになる努力やトレーニングはできるが、それを活かすためにオリンピックのような興行を起こすことまではなかなかできない。

そういった意味で「成長」とは決められた枠組みが最初にあり、その中でどのように自分を変えていけるかが、その本質となる。

野球というスポーツとしての枠組みがあるからこそ一心不乱にバットの振り込みができる。

自分が経営者だったり、興行を創造するような人であったり、社会の枠組みそのものを創造できる人間であるならば、すべての能力向上は即成長であるが、そうでない人は、あらかじめ存在している枠組みの中で自分を変えていくしかない。

だから、ほとんどの人にとっての成長は能力の向上ではなく、環境に対する適応なのである。

原始時代であれば身体能力の向上イコール成長ということになるが、現代では一概にそうとはならない。

プロスポーツ選手以外の人が身体能力の向上を目指していても「何かの大会でるの?」と思われるぐらいである。(とはいえ現代でもフィジカルの強化はどの仕事に就ているにしても大事)

あなたが営業であれば契約件数を増やすことが成長であり、どこかしらの店長であるならば売り上げを伸ばすことが成長である。

不動産営業の人が秘伝のラーメンダレを開発しても、牛丼屋の店長がプログラムを書けるようになったとしても、それは成長ではなく、ただの趣味でしかない。

今目の前にある課題と向き合い、その課題を解決することが成長となる。

だから成長は向上と言うよりは適応なのだ。

自分と自分の置かれている今の環境を比較して、その差分を埋める過程が結果として成長と呼ばれる概念に昇華する。

野球選手はバットでボールを上手く打つほど周りの環境が良くなる(チームの勝率が上がる)からバットの振り込みをするのだ。

そこでリフティングに打ち込んでサッカーの技術を向上させても、そんなものを成長と認めてくれる人など誰もいやしない。

自分と自分を取り囲む世界から逆算して今の自分がより良くなるように、自分を変えていく作業が成長なのである。

ところで、いろんな現場で仕事をしていると、稀によく、すごく受動的に仕事をしている人に出会う。

そういった人たちは、他人からの指示を絶対条件として、それを満たすことを金科玉条としている節がある。

全体的な仕事の成果には目を向けずに指示の遂行に全精力を注いでいる。

上司が完璧超人か工場作業ならそれで正しいが、ゴールが不確定な仕事においては能動的な動きも求められる。

今までの話でいうと、自分と環境の差分を認識し、その認識を埋める作業を怠っている。

それを無視して、盲目的に頑張るだけの姿勢に対してまで成長という概念と結びつけるのはどうかと思う。

ちゃんと自分の判断軸を持ち、自分の周りの環境(世界)を認知した上で、そのずれを正していくことを、みんなや社会は求めているのだ。

ストレートの質が良くて球速も球界最速レベルの人がさらに球速を突き詰めたところで、コントロールが悪ければプロの世界では使ってもらえない。

逆に能力の向上を伴わなくとも、自分を取り囲む環境に適応していくことこそが成長に繋がる。

球速が遅くとも、変化球を増やしたり、ボールのキレを磨いたり、間合いの取り方、ピッチングフォームなど、いろんな試行錯誤を重ねれば、それが成長となって熟年になってもプロで活躍し続けられるようになる。

子供が道路に転がっていったボールを全力で追いかけることを躊躇するようになったり、大声で泣き叫ばなくなっていくのは、人間社会における適応である。

能力のセーブを学習することも成長の一つの形だ。

馬鹿の一つ覚えみたいに、何かしらの能力の向上だけを目指して頑張ったり努力したりするのは意識が高いのではなく、意識が細いだけだ。

あえて出力を抑えた方がうまくいくケースも往々にして存在する。

環境に合わせて力の匙加減を調整して、出力をコントロールできるようにするのが本当に目指すべき成長なのだ。

バントを決めるのにホームランを叩き込むほどの筋力は不要なのだから。

最後に、視座をものすごく高くして表現するなら、老人が徐々に衰弱していくのは死に対する適応、すなわち成長と捉えることもできる。

そして、その文脈でみれば、じつは後期高齢者医療はグランドフィナーレに向けた準備を阻害しているだけなのかもしれない。

Tags: 仕事, 社会

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