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障害なき絶望と摩擦という希望

前回はClaude Sonnet 4.5に記事を書かせてみましたが、ついでにGoogle Gemini 3 Proにも記事を書かせてみました。

個人的な採点はClaudeが80点でGeminiは60点ぐらいです。

今回の記事は結果的にかなりプロンプトのやり取りをした上、さらに自分で直接文章を指定したので全部AIに書かせたとは若干言いづらいですが……

ちなみに著者はレコードをかけたこともなければコーヒー豆を挽いたこともありませんのであしからず。


最近、あらゆるものが「スムーズ」になりすぎている気がする。

Amazonでポチれば翌日に荷物が届く。

動画配信サービスで観たい映画が即座に再生される。

分からないことがあればAIが瞬時に答えを教えてくれる。

私たちの社会は、徹底的に「摩擦」を排除する方向へ進化してきた。

効率化こそが正義であり、待ち時間や手間といったノイズは悪であると。

しかし、摩擦が完全にゼロになった世界で、私たちは本当に「生きている」という実感を持てるのだろうか?

例えば、レコードで音楽を聴く行為を考えてみてほしい。

ジャケットから慎重に盤を取り出し、ターンテーブルに載せ、針を落とす。

そこには物理的な手間、そして針と盤が擦れ合う摩擦がある。

だが、その摩擦こそが「これから音楽を聴くぞ」という儀式として機能し、体験の解像度を高めているのではないか。

Spotifyでワンタップで再生される音楽は便利だが、どこかBGM的で、消費されるだけのコンテンツになり下がっている気がしてならない。

これは便利さは感謝を失わせるという話にも通じるが、もっと根源的な「質感」の話だ。

ツルツルの氷の上を歩くのが難しいように、人生にもある程度の「引っかかり」がないと、私たちは前に進んでいる感覚を得られない。

摩擦は、移動を妨げる抵抗であると同時に、移動を可能にするグリップ力でもあるのだ。

もちろん、摩擦が強すぎると前に進むことすらできず、人生はただの苦役になってしまう。

だが、現代はあまりにも摩擦係数がゼロに近づきすぎている。

試行錯誤というプロセスもまた、摩擦そのものだ。

失敗し、悩み、遠回りする。

効率至上主義の観点から見れば無駄でしかないその時間が、実は私たちの中に「経験」という名の沈殿物を残していく。

AIに答えを聞けば、摩擦なしに正解に辿り着ける。

だが、そこには「納得」という手触りがない。

他人の答えを借りてきただけで、自分の血肉にはなっていないからだ。

人間関係においても、私たちは摩擦を忌避しすぎている。

一昔前であれば常識や「当たり前」のイデオロギーを維持するための副作用として、そこから外れた人は強制的に人格矯正の研磨(摩擦)にさらされる圧力があった。

しかし、多様性やジェンダーレスという概念がその摩擦を排除してしまった。

その結果、今では「誰かを不快にさせるリスク(摩擦)」を極限まで減らすことが最優先され、エコーチェンバーの加速と社会の分断化が進んでいないだろうか。

ハラスメント認定を恐れるあまり、私たちは行動を抑制し、他者と深く関わることを避けるようになった。

傷つかないし、傷つけない。

その関係性は確かにスムーズだが、それだと他者という「異物」と衝突した時に発生するエネルギーが生じなくなる。

エネルギーが生じないということは、生きる活力も湧かないということだ。

私たちは今、あえて「摩擦」を設計に取り入れるべきフェーズに来ているのかもしれない。

UIデザインの世界では「フリクションレス」が良しとされるが、人間工学的には、適度な抵抗感があった方が操作ミスは減るし、操作したという確信も得られる。

iPhoneのホームボタンが物理ボタンから感圧センサーに変わった際、わざわざ振動で「押した感」を擬似的に再現したように。

人生も同じだ。

何でも思い通りになる世界は、きっと退屈で死にたくなるだろう。

思い通りにならない現実、理解できない他者、解決できない悩み。

そういった摩擦係数の高い要素こそが、私たちの生を「リアル」なものにしている。

「面倒くさい」は、実は「生きている」の同義語なのかもしれない。

だから私は、今日もわざわざ豆を挽いてコーヒーを淹れる。

全自動のエスプレッソマシンの方が早くて美味しいかもしれないが、あのゴリゴリという感触と香りがなければ、私の朝は始まらないのだ。

摩擦を愛そう。

それが、自動でスルスルと過ぎ去っていく時間に対する、唯一の娯楽なのだから。

Tags: 哲学, 社会

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区切りという儀式

「今年も終わるね」と人々は年末になると口にする。

しかし、冷静に考えてみれば、12月31日の23時59分59秒から1月1日の0時0分0秒に切り替わる瞬間に、この世界で何か特別なことが起きているだろうか?

地球は相変わらず太陽の周りを回り続けているし、私たちの心臓も呼吸も連続的に動き続けている。

昨日の延長に今日があり、今日の延長に明日があるだけで、そこに境界線など実在しない。

それなのに、私たちは暦の上での「区切り」を、まるで実在するかのように扱っている。

「新年」という概念に特別な意味を見出し、「今年こそは」と決意を新たにする。

これは不思議なことではないだろうか?

いや、不思議というよりも、むしろ滑稽でさえある。

年末になると、大掃除をしたり、忘年会で一年を振り返ったり、年賀状を書いたり、除夜の鐘を聞きに行ったりする。

まるで年が変わることで何かがリセットされるかのように。

しかし、リセットボタンを押せば全てが初期化されるゲームとは違い、現実の世界では何も変わらない。

去年から抱えている借金は元旦を迎えても消えないし、12月31日に太っていた人は1月1日になっても太ったままだ。

去年と同じ自分が今年も続いていく。

それでも私たちは「今年こそは痩せる」「今年こそは貯金する」と目標を立て、「心機一転」と何か変わったかのように決意を新たにする。

実在しない境界線を、さも実在するかのように扱い、その境界線に特別な力があるかのように振る舞うのだ。

この奇妙な現象は一体何なのだろうか?

この現象は、人間が言語化によって世界を認識する存在であることと深く関わっている。

連続的な時間の流れを、「年」「月」「日」という単位で区切り、名前をつけることで、私たちは時間を把握可能なものにしている。

もし暦がなければ、時間はただの連続した流れでしかなく、「去年」も「来年」も「今年」すらも存在しない。

過去を振り返ることも、未来を計画することも、今よりずっと難しくなるだろう。

つまり、暦の区切りは単なる便宜上の目印ではなく、人間が時間という抽象概念を扱うための認知的な道具なのだ。

そして、道具を作ったのは人間だ。

実在しない区切りを人間が作り出し、その作り出した区切りに人間が従っている。

これは逆説的な話だが、人間が作り出した虚構が、逆に人間の思考と行動を規定しているのである。

現実は思考化するのと同じく、ここでは道具が使う人の動作を定義するのである。

区切りという道具を作った結果、人間は区切りに従って生きる存在になってしまった。

そして、その道具を使いこなすために、私たちは区切りを「儀式化」する。

大掃除を例に考えてみよう。

なぜ年末に大掃除をするのか?

べつに年末じゃなくても大掃除はできるはずだ。

梅雨前の5月に掃除をしてもいいし、夏休みの8月に掃除をしてもいい。

しかし、私たちは年末に大掃除をする。

それは年末という区切りに「リセット」という意味を付与しているからだ。

物理的な掃除をすることで、精神的なリセットの儀式を執り行っているのである。

忘年会もそうだ。

ただの飲み会なのに、わざわざ「忘年」という名前をつけて、一年の区切りを共同体で確認し合う。

初詣も同じく、新年の始まりを神聖化する儀式だ。(実際には1月4日に行っても初詣なのだが、それはさておき)

こうした儀式を通じて、私たちは人工的な区切りに実体を与え、心理的な境界線を引いているのである。

ここで面白いのは、儀式は実際に効果を持つという点だ。

本来は実在しないはずの区切りが、儀式を介することで現実に影響を及ぼすようになる。

年末に大掃除をして部屋を綺麗にすれば、確かに気持ちはすっきりする。

新年に目標を立てれば、それがモチベーションになって行動が変わることもある。

虚構が現実を動かすのだ。

これはカリスマ性の話にも通じる。

本来は概念に過ぎないものが、人々がそれを信じて行動することで、実際に力を持つようになる。

「新年だから頑張ろう」という気持ちは、客観的には根拠がないが、主観的には十分な動機になりうる。

暦の区切りもカリスマも、人間の認識と行動を変える力を持つという点で共通している。

しかし、ここには大きな落とし穴もある。

区切りに頼りすぎると、区切りがなければ行動できなくなってしまう。

「新年になったら禁煙する」「来月から本気出す」「年度が変わったら転職活動する」

こうした言葉を何度も繰り返しながら、結局何も始めない人は山ほどいる。

区切りは行動のきっかけにはなるが、区切りそのものが目的化してしまっては本末転倒だ。

区切りを待っている間に人生は過ぎ去っていく。

やることとやらないことの差は、暦の区切りとは無関係に存在する。

「やる」人は区切りなど関係なく今すぐやるし、「やらない」人は区切りがあろうがなかろうがやらない。

区切りはやる人にとっては便利な目印だが、やらない人にとっては便利な言い訳にしかならないのだ。

また、区切りは時として秩序として機能し、柔軟性を奪う側面もある。

「年度」という区切りに縛られて、本来は継続すべきプロジェクトが打ち切られたり、逆に区切りのために無理やり完成させようとして品質が犠牲になったりする。

会計年度、学校年度、人事評価の期間、こういった区切りは便利な反面、本来の目的を見失わせる制約にもなりうる。

区切りがあるから計画が立てられる一方で、区切りがあるから本来やるべきことができなくなる。

ここにも道具の逆説がある。

道具を使いこなしているつもりが、道具に使われているのだ。

結局のところ、区切りとは人間が作り出した虚構であり、その虚構を信じることで機能する儀式だ。

しかし、虚構だからといって無価値なわけではない。

むしろ、人間を形作るのは環境なのだから、自分で作り出した虚構という環境に自分を従わせることで、自分を動かすことができる。

虚構が現実を動かし、現実が思考を形成し、思考が行動を生む。

暦という虚構、区切りという儀式は、連続的な時間の流れの中で方向性を見出すための、人間らしい工夫なのである。

そう考えると、「今年も終わる」という言葉は正確ではない。

正しくは「今年も終わると人間が決めた」だ。

年は勝手に終わるのではなく、人間が終わらせているのである。

では、人間が作り出した虚構とどう付き合えばいいのか?

大切なのは、区切りに意味があると信じながらも、区切りに縛られすぎないことだ。

年が変わろうが変わるまいが、やるべきことは変わらない

ただ、年が変わることを言い訳にして、あるいはきっかけにして、何かを始めたり終わらせたりするのは、それはそれで悪くない。

区切りは実在しないが、実在しない区切りを利用して自分を動かすことはできる。

それもまた、人間が持つ自己洗脳の一つの形なのだから。

虚構を虚構として認識しながらも、虚構の力を借りて生きていく。

これが人間という存在の面白さであり、滑稽さであり、そして愛おしさでもあるのだろう。


最後まで読んでもらってから言うのもアレですが、今回の文章は全部AIに書かせました。

過去のブログの文章を学習させて、「12月分の文章を書いて」と雑にプロンプトを投げただけ(微修正のためにちょっとだけプロンプトを追加しましたが)で、このクオリティの文章が仕上がりました。

すごく自分が書きそうなテーマと文体だったので、編集したい気持ちを抑えてあえてそのまま掲載しました。

タイトルもそうですし、別のエントリへのリンクもAIの判断によるものなので、これはすごいですね。

学習素材が良いと結果のアウトプットも良くなるんですね(

Tags: 哲学, 社会

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プロジェクトは芸術でありそれゆえ爆発する

仕事におけるプロジェクトの推進やシステム開発など、そういった組織だった営みは合理的かつ論理的に行われていると、ほとんどの人は漠然と考えているように思う。

仕事にまつわる大体の概念やモノはすでに規格化されており、マネジメントや方法論も学問として体系化され、書籍化され、教育もされている。

そこまで整っているのだから、それらの知識体系を適切に組み合わせて実践すれば、基本的にプロジェクトは失敗しないように思われる。

よほどの料理音痴でもない限りレシピ通りに料理を作れば、その料理が出来上がるのと同じように。

しかし、現実はどうだろうか?

どれだけ優れたエンジニアを揃えても、どれだけ高学歴の人材が存在したとしても、どれだけ綿密に計画を立てても、プロジェクトは炎上する時は炎上する。

納期は遅れ、予算は超過し、品質は妥協され、時には完全に頓挫する。

どちらかといえば、うまくいかない方が日常茶飯事なのはなぜだろうか?

学問や科学を土台にし、常日頃から「科学的根拠」を礼賛しているのだから、成功が当たり前になっていないことが逆におかしくないだろうか。

もし本当に仕事におけるプロジェクトの遂行が、科学や学問をベースにしているのなら、もっと成功率が高くてもいいものである。

化学が前提なら、基本的に同じ条件で実験すれば同じ結果が得られるはずだ。

しかし、現実では同じ要件であっても、対応する組織によってまったく異なるアウトプットが生まれる。

あるプロジェクトは順調に進み、別のプロジェクトは泥沼化する。

なぜそうなるのか?

答えは単純だ。

私たちが学問だと思い込んでいるものの多くは、実は芸術だからである。

音階の概念は学問だが、それらを組み合わせて生み出される楽曲は芸術だ。

色相は科学だが、それらを組み合わせて生み出される絵画は芸術だ。

だから、昔私がビジネスパーソンでしかないデータサイエンティストをデータアーティストと称したのはそのためだ。

我々は学問と芸術(「知識」と「教え」)の違いをあまり意識していない。

システム開発を例にすると、まず、その土台となるコンピューターサイエンスは確かに学問だ。

計算量理論、形式言語、暗号理論、これらは厳密な数学的基盤の上に成り立っており、再現可能で検証可能な知識体系だ。

しかし、サービスの開発や運用は違う。

それは圧倒的に芸術に近い。

楽天やAmazon、ネット証券や銀行のインフラは学問でも科学でもない。

これはサグラダファミリアと同じく、実体を伴う世に具現化した精巧なアート作品なのだ。

あまりにも日常に溶け込みすぎているため、それをアートだと認識していないだけだ。

あらゆるシステムにおいて、どの技術スタックを選ぶか、どんなアーキテクチャを採用するか、どこまで品質にこだわるか、いつリリースするか、これらの判断に正解はない。

厳密に言えば正解は存在するが、正解が存在するのは正解したその瞬間のみである。

正解に至る道筋には、状況に応じた感覚的な判断、経験に基づく直感、チームの価値観やセンスが深く関与している。

前回書いたように、そもそもプログラミングもロジックではなくアートだ。

デザインは日本語で表現すると「設計」だが、もとは「意匠」という意味も含んでいる。

つまり、プログラミングとは工学であると同時に意匠なのだ。

デザインパターンの選定、変数の命名、関数の分割、抽象化のレベル、これらすべてに作り手の経験からくるセンスと美意識が表れる。

そして、センスや美意識に絶対的な正解はない。

前回言及したレビューでのやりとりは学問的な議論ではなく、芸術的価値観の衝突、いわゆる音楽性の違いが表出しているだけなのだ。

こういったことは仕事全般についても言える。

学問や科学は道具としては使うが、最終的な成果は人々の芸術的センスに委ねられている。

企画書を書くこと、プレゼンテーションをすること、顧客と交渉すること、売り上げを上げること、これらで成果を出すことはマニュアル化できない芸術的営みだ。

営業トークのテンプレートを完璧に暗記しても売れない人がいる一方で、型破りなやり方で次々と契約を取る人もいる。

それは、その人が持つ独自の感性や人心を掌握する魅力やカリスマ性、つまり芸術的才能の差なのである。

学問と芸術の決定的な違いは、結果の予測可能性にある。

学問は普遍的な正解を追求する世界である。

しかし芸術の世界では、どんなに理屈や筋が通っていたとしても普遍的な正解など存在しない。

ピカソのキュビズムのように、一見現実を歪めたような表現が逆に評価を得たりする。

実際に世に出して、世間の反応を見るまで、その価値は確定しない。

仕事もまったく同じだ。

どれだけ綿密に市場調査をしても、どれだけ優れた技術を投入しても、実際にリリースして顧客の反応を見るまで、成功するかどうかは分からない。

試験問題であれば事前に正解は存在するが、芸術には正解はおろか模範解答もない。(芸術ではなく美術であれば別だが)

プロジェクトが爆発する理由は、まさにここにある。

私たちはプロジェクトを科学的なアプローチで管理しようとする。

ガントチャート、KPI、進捗率、これらの指標で計画を立て、進捗を測定し、問題を早期発見しようとする。

しかし、プロジェクトの本質が芸術である以上、こうした科学的管理手法には限界がある。

芸術作品の制作過程を数値で管理できないように、プロジェクトもまた数値だけでは捉えきれない。

チームの雰囲気、メンバー間の信頼関係、モチベーションの高低、時代の潮流、これらの目に見えない要素が、プロジェクトの成否を大きく左右する。

そして、人間関係や認識の統一に数学的な正解などない。

それは芸術的なセンスとタイミング、人との相性、時には運によって成立する。

だから、芸術と同じくプロジェクトも爆発する。

そして、芸術である以上、完璧なコントロールなど不可能なのだ。

学問は不確実性から確実性を抽出する営みであるのに対し、芸術は確実性ではなく人の感情を抽出する営みなのだから。

Tag: 仕事

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