経験・知識・語彙は読解力のもと
経験の多さ、知っている言葉の多さは自身の共感力や表現力に影響を及ぼします。
いろんな経験と知識があればあるほど、そこから逆算して、他人の状況に想いを馳せることができます。
さらに、状況の詳細にも言及できるようになります。
苦しい経験、痛い経験、嬉しい経験、楽しい経験、そういった過去の自分の経験に照らし合わせて、他人の喜怒哀楽に共感を寄せることができます。
そして、経験が共感を生み、共感による繋がりを通じてまた新たな経験を生む、成長のフィードバックループが築かれます。
逆に、経験が乏しいと他人に対して共感を感じにくくなります。
成長のフィードバックループを築けず、まさに「服屋に着ていく服がない」状態になってしまいます。
まさにマタイ福音書に書いてある通りです。
富める者はさらに富み、モテる者はさらにモテます。
「経験がそんなに大事か?」と思う人もいるかもしれません。
しかし、あなたも経験の有無で人を区別(差別)しています。
人が人を評価する時、その人の経験の有無を測っています。
人を雇う時は当然として、自分が仲良くなったり、友達や恋人として付き合おうとする時でも、相手の持つ何かしらの経験が自分に響くからそうなるのです。
見た目や習慣、喋り方、無意識の日常動作も過去の経験がそうさせています。
どんな話を振っても「ふーん」「知らない」「それがなんなの?」しか反応のない人と仲良くなれるでしょうか?
40年間ずっと引き篭もりをしているなんの経験もないニートと好き好んで交友関係を持とうと思うでしょうか?
相手がよほどタイプの異性か石油王ではない限り仲良くなろうとは思いません。
経験が乏しいと相手の関心に引っ掛かる適切なフィードバックができないのです。
赤ちゃんは存在そのものが尊いのでみんな構いますが、中年が赤ちゃんと同じ反応しかしなかったら、向けられるのは軽蔑か殺意か、あるいは無視されるだけです。
経験は相手に合わせる相槌のバリエーションを担保してくれます。
経験の量は自分の中のフックの数に比例し、フックが多かれば多いほど互いのフックが引っかかる確率も上がり、人と人が結びつきやすくなるのです。
たまに意識高い系のおっさんが「ガンダムは教養として勉強しておくべき」と言うのも、これが理由です。
ガンダムフックを持っていればおっさんと意気投合しやすく、仲良くなればビジネスが発展する可能性があるからです。
ちなみに話を出しといてあれですが、私はガンダムが大嫌いなのでガンダムフックを利用することはありません。
それはさておき、これで経験が大事であることが分かったと思います。
それを踏まえると、経験が乏しい人は、人と結ばれづらいのです。
そして、経験は努力ではなく環境でほぼ決まるので、本人が頑張るにしても認識できない天井が存在します。
日本で生まれ育った人間が日本人との交友関係が多くて、アラブ系の人との交友関係が少ないのは努力の問題ではなく環境の問題です。
経験は大事であると同時に「かけがえのない日常」と同じく、その価値も認識しづらいのです。
ここまで散々経験の大事さを語ってきましたが、経験が得られてなくても、擬似的に経験を得る方法があります。
それは「知識」です。
義務教育は、ある一定の共通の知識をあまねく子供に詰め込むことで、人それぞれの生まれや育ちによる経験の格差を最低限カバーするために存在しているといっても過言ではありません。
知識とは、いわば他人の経験の借用です。
冷静に考えてみてください。
われわれの持つ情報のほとんどは他人の記録から摂取したものです。
自分個人で体験して得えきた情報は一握りだけです。
現職の総理の存在も、ガザの空爆も、過去の戦争も、大谷の活躍も、水がH2Oなのも、他人が記録した情報を間接的に参照しているだけで、自身の経験ではありません。
自分の頭の中にある情報のほとんどは他人の記録に過ぎないのです。
しかし、他人の記録を自身の知識として蓄えることによって、あたかも自分が経験してきたかのように振る舞う事ができます。
そして、その知識を構成する最大にして最重要な要素は「言葉」です。
今でこそ映像や動画を伝えるメディアが多数存在しますが、遠い昔の知識の伝達手段は口伝しかなく、一昔前までは絵と文字だけでした。
そして、動画が溢れる現代においても、コンテンツの核はやっぱり言葉にあります。
ニュースであれバラエティーであれ、大抵の動画は喋るか文字を使っています。
動画が溢れる昨今でも情報の中心は言葉なのです。
その言葉を操るために必要なのが語彙(ボキャブラリー)です。
世間一般では語彙力、つまり知っている言葉の数が多ければ多いほど良いとされています。
一般的には語彙力=表現力と認識されていると思います。
さらに、語彙力をコミュ力に結びつけて解説している人もいますが、私ははむしろそれらは別物であり、さらには仲違いの元だと考えています。
ただ、知っている言葉の数が多ければ多いほど表現の幅が広がることは確かでしょう。
しかし、語彙力が本当に力を発揮するのは表現する時ではなく、経験と同じく物事を解釈する時なのです。
「動物」より「犬」、「犬」より「キャバリアキングチャールズスパニエル」と、語彙を増やすごとに、より対象の分別と理解が進むのです。
少し前に、物事の理解は段階を踏んで順序よくしましょう、という話を書きました。
四則演算は当然大事ですし、大人になってもよく使うし、算数はもとより数学の基礎です。
四則演算はそれだけでも重要ですが、四則演算を履修することで、そこから先の様々な公式や物理演算、確率、統計、経理に至るまで様々な知識を身につける事ができます。
四則演算が分からなければお金の計算もできないし、時間や日付も扱えません。
このように、知識は知識単体として役立てるだけでなく、むしろ、その知識を土台にして新たな知識を身につけるために使う方が重要なのです。
さらにいろんな語彙を蓄えていると、一見なんの繋がりもないような物事でも頭の中でアウフヘーベンが起き、新たな発見や認識、知見を得る事ができます。
今までたくさんの文章を書いてこれたのも、それ相応のインプットをしてきたからです。
しかし、言葉をたくさん知っているだけで豊かな表現ができるわけではありません。
知っているだけでは表現を適切に行うことはできません。
知っていることと説明ができることは別です。
いわゆる「分かったつもり」と「分かった」は違うというやつです。
言語化に辿り着くためには思考をコンパイルする必要があります。
その作業に必要なのが読解力です。
物事の概念を自分の中の経験と言葉で噛み砕いて、適切に消化できて初めて、文章化のエネルギーに変換できるのです。
頭の中に言葉がいっぱいあるからといって、即、人に伝わる意味のある文章を紡げるわけではありません。
そもそも、自分が理解できていないことを他人に分かるように説明することはできません。(たまに見かける、すごくいいことを言ってそうな文章なのによく読むと実は何も言っていない文章は、言っている本人も明確な理解に辿りついてません)
「分かったつもり」はただの捕食であり、「分かった」で初めて消化吸収され自身の血肉になるのです。
「人に教えることが一番勉強になる」のと同じく、文章を書くことは文章そのものの価値だけではなく、文章を書く過程で自身の理解が深まることに価値があるのです。(ですのでほとんど誰にも読まれないブログであったとしても書いた文章に価値がないわけではありません)
経験・知識・語彙は表現力というよりかは読解力の源だったのです。
そして、読解して理解した後に表現力がついてくるのです。
また、語彙の多さは物事を適切な比喩に置き換える助けとしても機能し、より理解を深める事ができます。
そもそもなぜ今回この話を書こうと思ったのかというと、昔に途中まで読んで挫折してしまった古典を最近また読み直してみると、以前よりもスムーズに内容が頭に入ってくる体験をしたからです。
本来インプットは何かしらの結果を出すために行うものですが、実はインプットは更なるインプット先の拡大、効率化を助ける役割があるのです。
経験や語彙はただそれ単体の価値だけではなく、そこから雪だるま式に身につける事ができる経験や知識の踏み台としての価値の方が大きいのです。
Tag: 哲学
アリストテレス vs ホッブズ
misskeyにブログ埋め込み機能が実装されたので、そのテスト。
リヴァイアサンとニコマコス倫理学を読んでた時の引用をクリップしてたのでここに貼り付けておく。
オレオレコンテキストおじさん
「言語化をサボる人」というまとめ記事を読んでいて、その表現だとまだ正確に言語化できていないのでは?と思ったので、そのことについて書き殴っていきます。
まず最初に、前提として「言語化」はみんなが思っているよりも難易度が高い行為です。
普段の我々のやりとりは言語化ではなく、頭の中にある語彙をいい感じに組み合わせていい感じに発声しているだけのパズル&リズムゲーに過ぎません。
パズル&リズムゲーがうまくプレイできれば相手との良好なセッションが奏でられます。
似たようなことを以前にも書きましたが、コミュニケーションと抽象的な概念を言語化することは別なのです。
当ブログでは本一冊分以上の文章が書き溜めてあります。
それだけ文章を書いてきた自分でさえ、多分、皆さんよりも言語化や文章を書く行為は難しいという認識を持っています。
どこまで分かりやすく文章を書いたとしても、頭の中の思考を十全に表現できた、と思えることはありませんし、読んだ人全員に伝わるとも思っていません。
それはなぜかというと、自分は言語化にあたってちゃんと主語やコンテキストを認識しているからです。
主語やコンテキストを含めて、しっかり相手に伝わるように言語化しようと思ったら、その分、より面倒になるし、全ての人間の脳内コンテキストに合わせて文章を書くのは不可能だからです。
例えば、「マック」だけだとマクドナルドなのかマッキントッシュのことなのか分かりません。
マックを正確に伝えるためにはコンテキスト(言葉の背景)を明確にしなければなりません。
さらにマクドナルドはともかくマッキントッシュを知らない人はそれ相応にいると思われますから、そこを考慮するとより詳細に説明する必要がでてきます。
この辺の話は等しいのスコープとふわふわ時間をお読みください。
そういった意味で言語化は難しいし面倒くさいのです。
さて、冒頭の記事によると言語化をサボる人は、主語を抜き、理由を省き、具体例を考えない人らしいです。
お金をもらいながら仕事をしているのに「そんな奴おれへんやろ〜」と思いますが、これが実際に仕事をしているとそれなりに存在します。
しかも、自分の経験則で話すのなら、偉い立場の人ほどその傾向が強い気がします。
「んなアホな」と思うかもしれませんが、そうなのです。
そして、そうした人たちは自分が言語化をサボっている人間などとは露ほども思っていないのです。
それはなぜかというと、偉い人は偉いので、仕事上、たくさんの人とたくさんのお話をしているからです。
これだけ普段言語を操りながら人とやりとりしていて仕事を推し進めているのですから、そんな人が自分のことを「言語化をサボる」人間である、との認識など持たないでしょう。
で、いざその人と会話をすると、主語があやふやで話の文脈を全然考慮せず、その場の思いつきでそれっぽいことをそれっぽく喋ってきます。
挙げ句の果てには相手が言ったことを後日、その相手に報告すると「それはどういう事ですか?」と質問され、頭がポルナレフ状態になります。
偉い人は偉いので、きっといろんな案件を抱えていて、いろんなコンテキストをスイッチングしまくりながら忙しなく仕事をこなしているのでしょう。
だから、一つ一つの案件(コンテキスト)を詳細には把握しきれないのでしょう。(自分は偉くなったことはないので知らんけど)
このように偉い人は偉いので、言語化をサボっているわけではないのです。
言語化はするが、そのためのコンテキストの認識が必要十分量に足りていないだけなのです。
複数のコンテキストを抱えながらそれを頻繁にスイッチングするのが日常なのですから、スイッチング自体にコストを割いてられないのです。
もしくはスイッチングコストに対するの認識がないか、です。
しかし、偉い人は偉いので部下に対して色々指示をしないといけないし、部下からの報告も色々聞かないといけません。
コンテキストの認識が薄い状態で言語化を試みようとするので、主語を抜き、理由を省き、具体例が出せない状態になるのです。
ですので、もう一度言いますが、言語化をサボっているのではなくコンテキストの認識が欠如しているだけなのです。
さらに、偉い人は偉いですから、叱られる機会もあまりありません。
ですので、偉い人の自己改善に期待するのは望み薄です。
偉いが故に、そういったある種の井の中の蛙状態に陥り、えてして大手からベンチャーに転職した人はローパフォーマーになりがちです。
そして、コンテキストの認識の欠如を自覚することは、作業そのもの(コンテンツ)を把握するよりも難易度の高い行為です。
「AをBにする」だったら、それをその通りにすればいいだけですが、「AをBにする背景(経緯)」となると、個人個人で微妙に認識がずれてきます。
大概の仕事において大事なのは作業そのものよりも「その作業により何が解決されるか?」の方です。
Yを実現するために「AをBにする」タスクが発生したものの、実際は「CをDにする」方が正しい、みたいなことはよくあります。
「Yを実現する」がコンテキストで、「AをBにする」はそれを解決するために考えた手段でしかありません。
そして 「Yを実現する」コンテキストがあやふやだと、個人個人で「EをFにした方がいい」とか「GをHにした方がいい」といった作業認識もバラバラになってきます。
そういった人たちでミーティングを行うと「会議は踊る、されど進まず」となるのです。
オレオレコンテキストおじさんたちが好き放題話し合っても、各々のオレオレコンテキストの差分がコンフリクトを起こし、いつまで経ってもマージ不能状態が解消されません。
仕事を進める前に、まずはみんなの中のイマジナリーコンテキストを集約して、明確に文章化した「ワンピース(ひとつなぎの大コンテキスト)」を定義すべきなのです。