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知識と意思決定

教育が思考力を鍛えるというのは嘘です。(ここでの教育は以前のエントリにおける「教与(教え)」の方の意味として捉えてください)

教育で伝授される知識や情報はあくまで思考や行動の為の道具であって、自身の考えや、成果そのものではありません。

現実世界で必要なのは要所要所における具体的な判断とそれに伴う行動、そして成果だけです。

いくら有能な農具を取り揃えたとしても、実際に種をまき、育て、実を収穫するところまでしなければ、明日を凌ぐパンを賄うことはできません。

選びぬかれた種、栄養満点の肥料、高性能な農耕具、広大な土地、先人がまとめた栽培方法、それら一つ一つは素晴らしいものですが、ただそれらがあるだけではなんにもなりません。

それぞれの要素から自分にあったものを取捨選択し、実際に自分で栽培収穫して初めて価値を生むのです。

授かった知識をいくら有用な価値があるように嘯こうとも、知識そのものだけではなんの価値にもなりません。

「99%の確率でこの馬券が当たる」という情報を持っていても、実際に馬券を買わなければ1円も儲かりません。

そして、1%は外れるわけですから、実際に買ったとしても下手をすると大損してしまう可能性もあります。

情報を持っていたとしても、それが100%良い結果を約束してくれるわけでもありません。

知識や知恵、情報やリテラシーはあればあるほど素晴らしいと無条件に思い込んでいると思いますが、それこそが思考力の欠如だと思います。(このことについても以前のエントリで書きました)

50年前のオイルショックが起きた時代と2020年になった現代では圧倒的に現代のほうが知識やリテラシーの質、情報量も格段に優れているといえます。

しかしオイルショックから半世紀を経た現代でも、デマ情報からトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起きてしまいました。

これは別に庶民がバカなのではなく「トイレットペーパーが不足だというのはデマだが、お店の商品が品切れになっている現実を目の当たりにし、実際に入手困難になりつつあると判断して、今のうちに買っておく」といった冷静な判断の連鎖により実際に市場から商品が消え去っていったのです。

メーカーからの「ほとんどが海外に依存しない国内生産であり、工場も平常稼働しており供給量も問題なく、在庫も潤沢にある」と聞かされていても、実際に空っぽになった商品棚を見ると不安に思ってしまうのが人情なのです。

いくら知識や情報を持っていたとしても現実を目の当たりにしたときの不安には勝てないのです。

知識や正確な情報を専門家から入手していたとしても、現実の行動においてはその場の感情が優先されてしまうのです。

現実で起きるムーブメントは知識やリテラシーの質、情報量で決まるのではなく、個々人のその場の感情の連鎖で決まるのです。

知識や情報が社会活動を正常にできないのであれば、いくら知識や情報があったとしても暖簾に腕押しでしょう。

そして、情報や知識を多く持つことにもデメリットがあります。

それは意思決定が難しくなることです。

情報はあるばあるほど良い判断ができる可能性は上がるとは思います。

しかし、決断行為自体の難易度が上がって、判断そのものがしづらくなります。

逆に情報が少なければ判断自体は簡単にできます。

例えば「勇者と魔王」という情報だけだと「まぁ勇者は善で魔王は悪でしょ」と簡単に判断できます。

しかし、魔王が魔王になるまでの顛末を知ったり、勇者の町中における破壊と窃盗行為を冷静に考慮すると、一概に互いを善と悪とにきっぱり分けて判断できなくなってきます。

政府や専門家がしっかりとした方向性を提示できずに、微妙にあやふやな対応になってしまうのは、情報が多いがゆえに起きる意思決定の困難さが原因だと考えられます。

上記の例のように、いろんな知識や情報を得れば得るほど判断の境目があやふやになってきます。

そうなってくると簡単に「これが正しい!」ときっぱり言い切れなくなってくるのです。

民家の不法侵入を棚に上げて「勇者は正義」と断定できないように…。

あらゆる方向性に対しての考慮はもちろんしていると思いますが、それと同時に、どの方向性で進むとしても一長一短があり、「これが唯一無二の正解だ」という選択肢は存在しないのです。

結果が確定しているのであれば、そこから逆算して最適な答えを出せますが、現在進行形の当事者からすれば結果がどう転ぶかは全く予想できません。

どの結果に転んだとしても、みんなが納得できるような都合のいい選択肢は存在しないのです。

それでも何かしらの意思決定を下さなければならない人たちは大変だなあ、と思います。

さらに、教育や知識を得ること自体にもデメリットがあります。

信じられないと思いますが、教育や知識そのものが人から思考力を奪っているのです。

教育には「他人から得た知識が無条件に正しいことだと思い込んでしまう習慣」を身に付けさせる作用があります。

周りの人の喋っている内容だったり、自分の喋っている内容をよくよく思い返してみてほしいのですが、それは自分が思考した末出した結論なのでしょうか?

ただ、他人の意見をオウム返ししているだけなのではないでしょうか。

ここでいう他人の意見というのは、TVのコメンテーターの発言であったり、メディアやブログで目にした著名人の語りや書いた内容のことです。

その中で自分の感性にあったものや、世間に流れているニューマ(空気感)と合っていると思われるものをすくいあげて、それをそのまま無意識に自分の意見としているだけなのです。

色んな情報を取捨選択したり、そこから自分なりに考えを発展させたりなどはしていないのです。

人々が「考え」を持っているのは嘘で、自分が気に入ったオピニオンリーダーをみつけて、その意見を自分の主張としているだけで、実は何も考えていないのです。

答えの用意された教育に慣れてしまっているせいで、それっぽい答えを世間から拾ってきて、それをそのまま回答するしかできなくなってしまっているのです。

確定した未来は存在しないですし、現実社会に絶対の正解は存在しません。

それなのに「正しい」という絶対的な概念が存在しないと平穏を保てない脳みそになってしまったのです。

存在しない正解をひたすら追い求めるだけのゾンビみたいな思考回路になってしまっているのです。

正解のように思える他人の意見をそのまま自分の意見としてしまう、これこそが教育の持つ負の側面といえます。

絶対の正解はそもそも存在しないという認識をちゃんと持てば、色んな意見がある中で、そこから自分なりの能動的な意見を見いだせるようになるのではないでしょうか。

なぜなら、答えがない前提においては、一番正解に近いであろうものを自分で取捨選択するか、それらを組み合わせて自分なりの考えを導き出すしかないからです。

それらが意思決定と思考力だと思います。

今回の話をまとめると…

  • 知識は持ってるだけでは無意味で実践して初めて価値を生む
  • 情報や知識があるからといって必ずしも良い結果を生むわけではない
  • 情報や知識が多いほど意思決定は難しくなる
  • 教育には他人から受動的に意見を植え付けられてしまう悪癖がつくデメリットがある

といったところでしょうか。

Tag: 哲学