< 確認を「確認する」で済ますな | ボキャブラリーはケンカの元 >
文章量:約1600字

喩話相応

阿含経典を読んでいると「この例え話の原典ってお釈迦様だったんだ」ってのが結構あったので紹介します。

個人的に阿含経典はすごく良い本だと思っていて(ただし非常に読みづらい)、世に少しでも広めるべく、面白いと思った例え話を抜粋してこのエントリにしました。


ご馳走の喩え

ある人が世尊(お釈迦様)に対して罵詈雑言を投げかけた。

そこで世尊は相手に対して

「客人にご馳走を振る舞う時、その料理を客人が食べなかった場合、その料理は誰のものか?」

と問い、相手が

「それは私のものとなる」

と答えた、すると世尊が

「それと同じことで、私は罵詈雑言を受け取らなかった。よって罵詈雑言はそなたのものである」

と答えた。

道案内の喩え

涅槃も涅槃に至る道も存在し、導師役として自分(世尊)がいるが、涅槃に実際に到れるかどうかはその人次第であることを道案内に例えて説明した話。

とある場所に行きたいと道を尋ねてきた者に対して世尊は道のりを懇切丁寧に教えた。

しかし、とある場所は実際に存在し、世尊の教えた道のりも正しいにもかかわらず、ある人は目的の場所まで辿り着けるが、別のある人は辿り着けない。

自分は相手を正確に導くことはできるが、実際に足を使って現地まで行くのは本人なので、目的地に辿り着けるかどうかはその人次第で導師役が介入することはできない、と説いた。

とても小乗っぽいエビソード。

布の喩え

心が穢れていたらその結果も悪くなること、また心が清浄であれば良い結果をもたらすことを布の染色に例えた話。

汚れた布を染壺に浸しても、汚れた部分に色は染み付かないので色鮮やかに染めあがらない。

しかし、清浄で無垢な布を染壺に浸せば繊維に万全なく色が浸透するので色鮮やかに染めあがる。

火の喩え

いろんな形而上学的な問い(世界にかぎりがあるかないか?死後の世界はあるかないか?など)に「あるとも言わないし、ないとも言わない」と答えた世尊が、その理由を燃える火に例えて説明した話。

目の前に火が燃えていれば、それを見た自分は「火が燃えている」と認識することができる。

その火は何によって燃えているのか問われれば「草や薪があるから燃えている」と答えることができる。

その火が消えれば、それを見た自分は「火が消えた」と認識することができる。

そこで「その火はどこにいってしまったのだろうか?西か東か?はたまた北か南か?」と問われれば「それは見当違いで、草や薪が燃え尽きたから火が消えた」と答えるだろう。

それと同じく、世界の果てや死後の世界の有無にまつわる質問も、その答えはただの独断(「火は北にいってしまったから消えた」と答えるようなもの)であり、所在の有無を問われても、それは見当違いで答えようがないことである、と説いた。

毒矢の喩え

先程の火の例えの続きの話で、それでもなお形而上的な問題の答えを知りたくて世尊に問い詰めた人に対して諭すのに用いたお話。

毒矢に射られた時に、助けに来た医者に対して「私の疑問が晴れないうちは刺さった矢を抜いてはいけない」と言った。

「矢を射た者は誰なのか?」「矢を射た者の背丈はどれほどのものか?」「矢を射た者の肌は何色だったのか?」「矢を射た者の出自はどこなのか?」「矢を射た弓の形状はどういったものなのか?」「矢を射た弓の糸の素材は何だったのか?」「矢の羽はなんの羽であるか?」「矢柄は何であろうか?」「矢柄はなんの筋で巻いてあるだろうか?」「矢の形状はどういったものであるのか?」

しかし、まずは毒矢を抜かなければ、それらの情報を知る前にその人は絶命してしまう。

医者が毒矢にどのように対処するかが大事であって、射られた人が疑問に思った毒矢にまつわる情報は大事ではない。

それと同じように、あなたの問いかけは私(世尊)が説いていないことであるから、説いていないことは説いていないとそのまま受持し、説いたことは説いたこととしてそのまま受持しなさい、と説いた。

Tag: