< misskey v13への道 | 限界を超えるな >
文章量:約2300字

可能性の可能性

親ガチャにはいくつかの要素があると思っている。

まず、親自身がどういう人なのか。

つぎに、受け継がれた遺伝子。

さらに、先天的な身体属性。

そして、親の周りの環境。

それぞれの要素を分かりやすく説明すると下記のとおり。

まず、親の性格や教育方針で子供の育て方に差が生まれる。

上品な家庭に生まれればマナーが身につくし、がさつな親の子供であればマナーとは無縁の生活になる。

つぎに、親の持つ遺伝子で、おおまかな自分の見た目と性能が決まる。

背の高さだったり、太りやすかったり、禿げやすかったりはだいたい親の属性が引き継がれる、正確には知らんけど。

さらに、持って生まれた才能として、足が速かったり、頭の回転が良かったりなどの先天的な能力をプラスアルファで授かるかもしれないし、かたや、片足がない状態だったり何かしらの病気を抱えて生まれてくるかもしれない。

そして、それらをすべて背負った上で、親の経済状況や人脈によって子供が育っていく上で接する状況や人が決まり、子供の人格形成を大いに左右する。

それらのたくさんの変数を全て掛け合わせたものがいわゆる「親ガチャ」だと思っている。

こう書くと、人生のほとんどは親ガチャで決まってしまうのもうなずける。

文化資本という言葉があるが、実はこれも親ガチャの一つの要素でしかない。

親と親の周りの環境が子供の文化資本を決める。

親の趣向や経済状況により子供に与えられる経験に差が出る。

親が子供に可能な限り色んな経験をさせてあげようとするのは、文化資本が人生を左右すると本能的に理解しているからだ。

一年ぐらい前に、裕福な家庭の子供が親から仕送りを貰いながら「経験はお金では買えない」と言って炎上していたが、現実は「経験はお金で買うもの」である。

機会はみんなに平等に与えられているものと思っているのなら、とんだ勘違いだ。

例えば、南アフリカの難民キャンプで暮らしている子供がフィギュアスケーターになりたいと思うだろうか?

まず、ほとんどの人が「フィギュアスケート」という概念すら知ることはないだろう。

スケートを見ることもなければ、することもないし、する場所もない。

その環境からフィギュアスケーターになるという「可能性」すら芽生えない。

仮に知ったところで今を生きるだけで精一杯だ。

明日の飯が食えるかどうか分からない状況で「フィギュアスケーターになってみんなを楽しませたい!」という夢を抱くこともありえない。

フィギュアスケーターになりたいと思えること自体が一つの文化資本であることが分かる。

このように、文化資本は人の持つ「可能性」の幅を決める。

裕福な人が100あるのが当たり前と思っていても、貧乏な人から見れば10も存在しないかもしれない。

「人生には無限の可能性が広がっている」と思っているのは文化資本が豊富な人だけで、文化資本が少ない人は、できる可能性がある認識すら持たせてもらえない。

社会的成功者が「仮に今のお金がなくなってもいくらでも一からやり直せるぞ」と言ったところで、普通のサラリーマンにそれを真似るのは無理だろう。

できていたらそもそもサラリーマンなどやっていない。

可能性は文化資本の上に成り立つし、文化資本は生まれ持った環境によって左右される。

成功者が言う「可能性は無限大」はそいつだけの話であって、人類みんなが等しく無限の可能性を「認知」できるわけじゃない。

できるかできない以前に、挑戦の動機となる可能性の認知そのもの自体が、すでに自身の努力の範囲外であり、親ガチャの影響を大いに受けている。

文化資本はカジノにおけるチップであり、パチンコ玉やスロットメダルと同じく、それがなければそもそも挑戦権すら与えられない。

また、持っていたとしてもその量の多寡で「当たり」の確率も違ってくる。

さらに、個人が持っている文化資本の差で自身が所属できるコミュニティーも決まる。

ゲームやアニメを知らないとそれを話題にしているクラスターには入れないし、流行りに疎ければ周りの人との会話に混じれない。

文化資本が乏しければ、その分、人との会話の接点が少なくなるので、人との繋がりが構築しにくい。

これは以前書いたコミュニティにおける約数束縛論にもつながる話でもある。

そして、文化資本は不文律の知識量でもある。

ある人と交友を持とう、または、ある集団に属そうとする時にイニシエーションとして、不文律の知識の有無を確認するテストが課される。

企業の採用試験にしてもデートにおける食事にしても、相手はこちらの一挙手一投足を観測して、自分(達)と対等に付き合えるだけの文化資本を持ち合わせているかを判定している。

そこで、相手がこちらの資本不足を察知すると、はれてキャッチアンドリリースされる。

文化資本を持ち合わせていなかっただけなのに、新しい人間関係を構築していくことができない。

ヤンキーの世界にガリ勉は入れてもらえないし、上流階級にルンペンは立ち入れない。

ただ相手に合う文化資本を持ち合わせていなかっただけであって、もしかしたら、相手の求める才能や能力を秘めている可能性はある。

じつは、採用すればすごく仕事のできる可能性もあるし、長く付き合ってみればとてもいいパートナーになれた可能性もある。

が、その「可能性」は試されることなく、文化資本がなかったがために可能性は消滅してしまう。

「無限の可能性」と、みんな気軽に言うけれども、現実では可能性よりも結果が優先されるので、可能性にはみんなが思っているほどの価値も「可能性」もない。

可能性は無限大でも、可能性を考慮するための可能性はあまりにも小さい。

あなたが橋本環奈や永瀬廉と結婚できる可能性は天文学的な数字上、存在するかもしれないが、それを「可能性」として現実では語らないのと同じように。

Tag: 社会