< アンテナとフック | misskey v13への道 >
文章量:約6000字

機会の副作用

自己啓発業界には「失敗は成功のもと」や「試行回数が大事」といったチャレンジそのものを肯定するポジティブワードがたくさんあります。

かくいう自分も、実際に実行することの大切さ考えるより試行錯誤を高速で回したほうがいいといった内容の文章を書いています。

たしかにほとんどの場面において、結果を出すためには試行回数は重要なファクターとなります。

宝くじを1枚買うより100枚買ったほうが当たる確率は上がりますし、誰にも告らなければ誰とも付き合えませんが、100人ぐらいナンパすれば一人ぐらいは付き合えるかもしれません。

そういった「世の中に失敗というものはない。チャレンジしているうちは失敗はない。あきらめた時が失敗である。(稲盛和夫)」みたいなことは、現実でどこまで適用できるものなのでしょうか。

100回やってダメだったとしても、次の101回目でうまくいくかもしれませんし、それがダメでも次の102回目で……と可能性自体はたしかに無限大です。

しかし、現実ではあらゆるリソースが有限です。

ロケットの打ち上げに失敗して「この経験を次に活かせばいい」と口では簡単に言えますが、実際の打ち上げには相当のお金と時間がかかります。

そう何回も気軽にポンポンと打ち上げられるものではありません。

お金が尽きれば、計画も尽きます。

諦める前に、リソースが尽きてしまえば、その時点でジ・エンドなのです。

人間に与えられた体力と気力も時間も有限です。

宝くじも買えば買うほど当たる確率は上がりますが、買える宝くじの額にも限度があります。

内定を目指して就職活動をしていても、2、3社お祈りされるぐらいならまだ気力を保てるでしょうが、50社以上からお祈りをもらうと、さすがに気力もなくなってきます。

婚活も、2、3人ぐらいにお断りされるぐらいならまだ気力を保てるでしょうが、50人以上からフラれると、現実を受け入れるのが辛くなってきます。

このように「回数をこなせばその分、成功確率が上がる」と、言葉ではなんとでも言えますが、実際にやるとなると、そうは問屋が卸さないようになっています。

たしかに試行回数を増やせば成功率は上がりますが、現実において試行回数は無限ではありません。

なんだったら、小中高の入学試験のようにチャレンジ機会が人生で一度しかないイベントだってあるのです。

よって「成功するまでやり続ければ成功する」言説をそのまま鵜呑みにするのは危険です。

「当たるまで賭け金を倍額しながら賭けていったら確実に儲かる」は理屈上は正しいですが、これは御存知の通り詐欺師の言葉です。

たいていは当たる前に手持ちのお金が底をつき、身ぐるみ剥がされるのがオチです。

「成功するまでやれば失敗じゃない」も理屈はそれと同じです。

だから、この言説は半分ペテンなのです。

一昔前に流行ったワタミ社長の有名なフレーズを思い出してみてください。

自由や愛や民主主義と同様に、試行回数の多さも無条件に良いものとされていますが、それにもやはり副作用はあるのです。(もちろん、自由や愛や民主主義にも副作用はありますが、そのお話は今回しません)

前置きが長くなりましたが、ここから試行回数の多さが生み出す副作用について書いていきます。

1.気力が減る

まず、一番理解しやすい現象として、気力が減ることが挙げられます。

シュタゲを知っている人に向けて分かりやすく例えると、シュタインズゲートゼロのオカリンです。

試行のチャンスが無限にあっても、気力が尽きて心が折れてしまえばそこで試合は終了です。

最初は気力も体力もあるので、全然余裕にチャレンジできていたことも、回数を重ねるにつけ、どんどん気力も体力も落ちてきます。

そして、現実では人生の残り時間も常に減り続けていきます。

若い時は全く気になりませんが、年を取れば取るほど、やはり老化を感じます。

30を超えてもそうですし、40を超えても、年々体の劣化を感じるようになってきます。

10代20代の人だと全くピンとこないでしょうが、いずれ分かる時がきます。

そして、気力も体力もなくなったときに、人はチャレンジを諦めます。

浪人生も一浪ぐらいならいいですが、10浪までくるとさすがに別の道を模索しろよ、と言いたくもなります。

そこを「諦めたら試合終了だよ?」と発破をかけてみたところで、そいつの人生がただただ無駄に浪費されるだけです。

最初のほうに例を上げた就活でもそうです。

何十社もお祈りされたらさすがにメンタルにきます。

そして心が折れて、引きこもりになってしまい、さらにその失敗で植え付けられた心の傷が、社会復帰を難しいものにさせます。

人の心は案外折れやすいものです。

そうでなければ、自殺で人が死ぬこともないし、精神病がこんなに蔓延る世の中にもなっていません。

もし、あなたが心が折れたこともなければ、これからも折れることがない、と断言できるなら、その強靭なメンタルを生んだ親に感謝し、心が折れる境遇に置かれなかった幸運を神に感謝すべきです。

オオカミ少年の話も、大人に無限の気力があったのならば、何回嘘をつかれたとしても「今回は本当かもしれない」と、実際に狼が襲ってきたときも対応できたことでしょう。

しかし、嘘を何回も重ねるたびに村人の気力が減って「また嘘をついているな」といちいち対応しなくなったのです。

このように、気力は有限であり、試行はそれを消費するのです。

2.憎悪が増える

次に挙げられる副作用は、憎悪が増えることです。

これはソシャゲのガチャを例にすると分かりやすいでしょう。

ある人は毎回10連で当たりを引き当てています。

翻って自分は、毎回諭吉を生贄に捧げ、天井(当たりが確定で出る)まで回していたとしましょう。

結果だけをみれば共に、成功した(当たりを引けた)ので、めでたしめでたしです。

しかし「自分は大金をはたいているのにあいつは無料石だけで欲しい物を手にしている。これは不公平だ。」といった感情が芽生えてきます。

なんだったらさらに「あいつより俺のほうがこの作品に詳しいし、この作品を愛している。だからあいつよりも俺に当たりが出るべきではないのか?」と本来思わなくてもいい嫉妬心も芽生えてきます。

人間、自分が苦労した分は、それ相応に報われてほしいと思うものです。

その横で、楽して涼しい顔をした人が通り過ぎれば、心穏やかではいられません。

「なぜ自分だけがこんな苦労を?」と思わざるをえません。

「苦労は人生の糧になる」なんてものは自分の苦労を紛らわすためのただの詭弁です。

あらゆることは楽にできれば楽にできるにこしたことはないし、苦労は少ないほうがいいに決まっています。

だからこそ、テクノロジーが発展して人類社会は便利になったのです。

試行回数は少ないほうが楽だし、多いと苦労が溜まってきます。

相対的にみて、自分が他人よりも苦労をすると、その差分が憎悪として顕現してしまうのです。

同じ給料なのに、自分が終電まで仕事している横で、颯爽と定時で帰っている人がいれば、理不尽を感じられずにはいられません。

そう、自分が苦しんだ分だけ、他人に対する憎悪も膨らんでくるのです。

3.自己責任の増幅

続いて、3つ目の副作用として、自己責任の増幅があります。

機会の存在は、その数だけチャンスを与えられているのと同じことです。

自由とは、いうなれば無尽蔵に与えられる機会のことです。

権利と責任はセットとよく言いますが、自由を行使する権利を与えられれば、その分、責任も背負わされるのです。

人生において選択肢を与えられるごとにいちいち「自分」を定義執行する義務が発生し、人々はその苦悩から逃れるために『自由からの逃走』を試みるのです。

チャレンジ権は責任という負債とのセット商品なのです。

小額の負債ならすぐ返済できるので問題は起きにくいですが、利息を返すだけで精一杯までに膨れ上がると大問題です。

1回失敗しただけだったら、気軽に「次は頑張れよ」と励ますことも容易です。

しかし、何十回、何百回となってくると、そうも言ってられなくなります。

ロケットの打ち上げ失敗も、1回だけだったらまだ次のチャンスを与えられるかもしれません。

しかしこれが、次も失敗、そのまた次も失敗……となってしまったらどうでしょうか。

最初に「失敗は成功のもと」と言っていた人も、さすがに苦言を呈したくもなってくると思います。

理論上のチャレンジ回数は無限ですが、チャレンジを重ねるごとに、外からのプレッシャーも無限にブーストしていきます。

機会を与えたならば、最後にはその期待に報いてほしいと思うのが人情です。

故に、試行回数を重ねるごとに、その失敗に対する責任の重さも加算されていきます。

最終的に成功すればいいですが、やればやるほど失敗したときの自己への責任も増していきます。

グズグズ失敗を重ねていると、いずれ成功する前に、積み重なった責任の重さに押しつぶされてしまいます。

2、3浪ぐらいならまだ人生を挽回する可能性も残されているでしょうが、10浪まできて結局挫折してしまえば「なぜそうなる前に別の道を模索しなかったんだ?」と自身の責任をきつく責められるでしょう。

試行回数が増えるほど人の目は厳しくなるのです。

それなのに「できるまでやり続ければいいだけじゃん」と気軽に言い放てるのは、単に頭が悪いか無責任な人だけです。

自己責任の増大は、最初の副作用で書いた、気力が減る原因の一つにもなっているのではないでしょうか。

なにかしら行動するごとに、自分からも他人からも重圧がかかるので、ただ「する」だけでもみんなが思っているよりも負荷がかかっているのです。

だから「〜したい(できる)」はみんな言うのに、「〜をやった(ている)」になると途端に人数が減るのです。

4.偏見の増長

良くも悪くも人間は学習して成長していく生き物です。

人間は失敗から学びます。

試行回数が多いということは、それだけ失敗したということです。

基本的に人は失敗はしたくないですから、可能な限り失敗を避けようとします。

失敗したときに何かしらの失敗要因を見出して、その要因を遠ざけようとします。

例えば、ある初めて入った定食屋がすごく不味かったとしましょう。

いわゆるハズレのお店というやつです。

そして、その後にもいくつかの不味い定食屋を引いてしまいました。

すると、その店々から何かしらのマイナス情報を抽出して、次のお店選びの基準に適用しようと自然と考えるようになります。

そこで、メニューが無駄に多すぎだったり、店の面構えが汚かったり、自分以外にお客さんがいなかったり、食べログの評価が3.2点を切っていたりと、何かしらの要因を見いだしたとしましょう。

そして、そこから学習して、次からの定食屋選びに活かすわけです。

自分以外にお客さんがいなかったことを原因として学習した場合は、次からは人があまり入っていないお店は避けよう、となるはずです。

しかし、上記で挙げた、お店の料理が不味かったそれぞれの要因として考えられる事柄は、絶対にそのお店の料理が不味いことを決める要因にはなりません。

メニューが豊富でも、店の面構えが汚くても、お店が全然繁盛していなくても、食べログの点数が低くても、美味しいお店は存在するかもしれません。

あなたがいくら失敗から学んだとしても、所詮は個人一人による経験則でしかなく、それは全体の中の一部にしか過ぎません。

それでも、自身の経験を次に活かして行動してしまうのが人間です。

メンヘラと付き合って痛い目をみれば、次からはメンヘラを避けようという意識が働きます。(それでもまたメンヘラを好きになってしまうのが人間ではありますが)

身なりの悪い人が悪態をついているのを見れば、身なりの悪い人には近づかないでおこう、となります。

もちろん、メンヘラだからといってそれだけで悪い人間ではないですし、身なりが悪くても、実はいい人だったりするかもしれません。

でも、学習の結果として偏見をあえて自分に植え付け、失敗を避けるようになるのです。

試行が多いほど偏見(アンチパターン)が見出され、差別意識が高まってくるのです。

大企業になればなるほど人を判断するノウハウが蓄積されるので、採用のハードルが高くなるのはそのためです。

採用による選抜はただの合法な差別です。

逆に試行回数が少ないスタートアップなら「暇なの?じゃあ手伝って」ぐらいで採用してしまうくらいザルな場合もあります。

良くも悪くも、機会の増加は失敗を量産する分だけ偏見を助長するのです。

そして、偏見の助長が2番目の副作用で書いた、憎悪が増える原因の一つにもなっているのです。

5.他人に負荷がかかる

自分が何かをすれば、当然何かしらの影響を他人に及ぼします。

今回のエントリでは就活の例を多用していますが、再度、就活を例に話をさせてください。

就活では応募側はもちろんのこと,採用側も労力を割きます。

2、3社で内定が取れれば、企業側の労力もその2、3社だけで済みます。

しかし、50社以上お祈りされ続けた場合、あなたの気力も蒸発しているでしょうが、それと同時に企業側も、チャレンジした会社の数だけあなたに労力を割いたことになります。

一つ前の項目で小さい会社より大きい会社の方が人を選別している旨の話をしました。

大企業においてはさらに、選別をしなければいけない理由があります。

大企業ほど人気があり、より多くの人から申込みが殺到するので、その分、人を篩(ふるい)にかけなければいけないからです。

逆に中小企業やベンチャーは、知名度もなく、そもそも入社の申込みが少ないので、悠長に人の選別をしていられません。

試行回数の多さが会社の負荷を増やし、内定をより狭き門にしてしまっています。

企業側は応募者が増えるほど仕事量も増えるし、入社希望側もその分、お祈りを貰う回数が増え、気力も削られていきます。

リクなんとかさんが就活全体のサイクルをまとめて一大ビジネスにして、就活(と転職)活動を非常に効率化させましたが、それはほんとに日本にとって良かったことなんでしょうか?

私には試行回数によるマッチングの恩恵よりも、企業と求職者にかかる負荷のほうが重くなっているように感じられます。

仕事をする上でも積極的にチャレンジすることは良いことのように思えますが、会社で仕事をする以上、自分ひとりで完結するようなことはほとんどなく、やはり何かしら他人に負荷をかけることは避けられないでしょう。

雑な仕事が他人の負荷になる話を昔に書きましたが、そこに書いてあるとおりです。

他人への負荷がかかるチャレンジにおいては、試行回数は少ないに越したことはないのです。

まとめ

ピンチはチャンスといいますが、チャンス(機会)がピンチ(副作用を生む)になることもあるのです。

今回は機会の副作用として5つの要素を挙げました。

  • 気力が減る
  • 憎悪が増える
  • 自己責任が助長される
  • 偏見が増長する
  • 第三者に負荷がかかる

チャレンジすることは無条件に良いことのようにみえて、長所の裏返しが短所のごとく、ネガティブな面もあることをもっと認識しておくべきでしょう。

Tag: 社会