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文章量:約2400字

できるとやっているの距離

「できる」と「できない」で遂行能力に違いがあることは、誰にとっても分かりきった話だと思います。

だからこそ、人材派遣会社や大企業ではないベンチャーやスタートアップの採用では、新卒ではなく実務経験を持った「できる」人を即戦力として募集していることが多いです。

絵が描ける人は漫画家になれる可能性を秘めていますが、絵が描けない人は漫画家になれませんし、そもそも漫画家を目指そうとも思わないはずです。(原案や脚本はできるかもしれませんが)

個人の持つ技術がそのまま、やれることの可能性に直結するので「できる」か「できない」かは決定的に大事なことだと認識している人が多いと思います。

しかし、じつは、できるとできないの距離以上に「できる」と「やっている」間のほうが途方もない距離があるのです。

さきほど「絵が描ける人は漫画家になれる可能性を秘めて」と書きましたが「なれる」とは言い切っていません。

ここが肝なのですが、絵が描けるからといって漫画家として生きていけるようになるわけではありません。

絵が描ける人の中で、それを生業として生きている人は100人に一人もいないと思います。

絵が描ける(できる)人は世の中にごまんといると思いますが、絵を日常的に描いている(やっている)人はその中からかなり絞られると思います。

現実として、できる人の数とやっている人の数には相当の乖離があるはずです。

「できる」と「やっている」を、どっちもできることには変わりないからといって、どちらに対しても同じ評価点で処理してしまうのは危ういと思うのです。

やればできるけど普段は発揮することのない能力と、生活のルーティーンとして日常的に発揮している能力は別物として扱うべきです。

それはなぜでしょうか。

どちらもできることには変わりないのですから「能力的には同じじゃん」と思われるでしょう。

でもやはり、「できる」と「やっている」は致命的に違うのです。

私の趣味であるランニングで例えて説明しましょう。

私は一回のランで10キロ走ります。

普段運動していない方からすれば10キロは途方も無い距離だと思われるでしょう。

しかし、「あなたは10キロを走ることができますか?」と問われれば、ほとんどの人は「できます」と答えられるはずです。

中年のメタボの人だと条件反射的に「無理」と即答されそうですが、 時間の制約を課してはいないので、歩くようなスピードのジョギングでも休み休みでもいいわけですから、滅茶苦茶しんどいとは思いますが、時間さえかければ、ほとんどの人はやればできるはずです。

しかし、です。

ほとんどの人は10キロのランニングをこなすことができるはずなのに、実際にやっている人となると10分の1どころや100分の1以下(具体的にどれくらいの人がランニング習慣を持っているかは知りませんが)に減ってしまいます。

そう考えると「できない」と「できる」の間にもかなりの隔たりがあるけれども、それ以上に「できる」と「やっている」の間にもかなりの隔たりがある事が分かります。

走ることはできても走らない人はメタボのままですが、走っている人はちゃんとプロポーションを保つことができます。

できたところでやっていないと、技術や能力に見合った恩恵は受けられないのです。

知識についてもそうです。

知っているだけではあまり価値があるとは言えません。

知った上でやって、やり続けて、初めて結果が出るのです。

メタボの人でも食事に気を使い運動習慣をつければ痩せれることぐらいは知っているはずです。

しかし、メタボの人は依然メタボです。

なぜメタボかというと、食事に気を使わずに運動習慣もないからです。

知識を得るよりも、それを実践するほうが難易度が高いのです。

さらに、三日間ぐらいだけ頑張って実践したとしましょう。

依然メタボはメタボのままです。

これでもまだダメなのです。

さらにさらに、ずっとやり続けて習慣にしてある程度の月日を経て、やっと結果が体に表れるのです。

これが「やっている」です

「できる」と「やっている」の間に相当な隔たりがあるのを実感してもらえたでしょうか。

知識にはみんなが思っているほどの価値はないのです。

そして、「やっている」に対しては、みんなが思っているより低い評価を下してしまっています。

SNSで軽くつぶやいた「夏までに5キロ痩せる!」投稿には「いいね」がつきますが、日課で毎日走っている人に「いいね」はつきません。

痩せるための意気込みと知識だけでは痩せはしませんが、なんの知識はなくとも毎日無心に走っていれば痩せれます。

知識だけはあるメタボと、無知だけど健康な肉体、どちらが人として評価に値するでしょうか。

最初に採用の例えをだしましたが、知識の有無だけで人を判定しても、その人の実力はほとんど判断できないでしょう。

「知っている」や「できる」までは判定できます。

けれど一番重要な「やっている(た)」は知識の有無だけでは推し量れません。

そういう意味では、面接で応募者の知識の有無をいくら確認しても、実務をこなしてもらうまで、実力は未知数のままなのです。

できたところでやってみなければその効果が分からないし、さらにやり続けなければ効果の恩恵を授かることはできません。

また、「できる」としても実際に「やれる」かどうかは環境要因に大きく左右されます。

ランニングする気力や体力があっても仕事が忙しすぎれば、走る時間を確保するのは難しいでしょう。

そして、漫画家と同じように「できる」からといってそれが結果を約束してくれるわけでもありません。

背が高くて豪速球やキレのある変化球を投げることができても、ずっと成績が芳しくない選手もいれば、背が低くて豪速球やキレのある変化球はなくても、40歳を超えてもなおずっと一軍で成績を残し続けられる選手もいます。

前者の「できる」選手より、後者の「やっている」選手のほうがずっと素晴らしいしチームに貢献しています。

ちなみに、前者がいるチームは開幕ダッシュで歴史的敗戦数を叩き出し、後者がいるチームは執筆現在、首位をぶっちぎりで独走しています。

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