現実は思考化する
自己啓発業界で知名度が高くかなり売れている本の一つにナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』がある。
デール・カーネギーの人を動かすと双璧となす人気書籍で、一昔前にWebエンジニア界隈で流行ったソフトスキルズの中で互いにお勧め本としても紹介されている。
個人的には上記2冊は焚書にして、同じく『ソフトスキルズ』内でお勧めされている、アイン・ランドの肩をすくめるアトラスを読んでほしいと思っている。
それはさておき、今回は、思考が現実化しているのではなく現実が思考を生み出しているだけだ、という話をしたい。
お笑い芸人のティモンディ高岸が使っている有名なセリフで「やればできる」がある。
しかし、現実は「やってもできない」ほうが多い。
やるだけでできるのであれば、プロ野球全12球団は毎年優勝していないとおかしいが、実際は2球団しか優勝できない。
この言葉を人を軽く励ますぐらいで使用するのであれば理解できる。
でも、大体は「やればできました」で簡単に済むほど世の中は甘くない。(もちろん「やればできました」で簡単に済んでしまうこともそれなりにある)
多大な労力をかけて色々試行錯誤しても、コロナも戦争もなくならないし、犯罪や自殺をしようとしてる人に言えば逆効果になってしまう。
ある特定のシチュエーションにおいて、例えば、逆上がりができずに頑張っている子供に向かって励ましの意味で「やればできる」というのは、別に全然いいと思う。
それでも、その子供は「やればできる」とは限らないのだけど。
当人が置かれている状況を無視して無条件に「やればできる」と連呼されても、訪問販売の押し売りで「うちの会社で契約すれば電気料金を安くできますよ」と言われるのと同じでウザいだけである。
育毛剤やシャンプーに多大な投資をし、様々なサプリやマッサージなど数多の試行錯誤を重ねても、なお禿げてしまっている人に向かって、なんのケアもしていない髪の毛ふさふさの人が「やればできる(頑張れば髪の毛が生えてくる)」と無邪気に言い放ったとしたらどうだろうか。
自分がハゲの立場だったら普通に殺意を抱くと思う。
「やればできる」は、やっていない人に対しては、背中を後押ししてくれるポジティブな言葉である。
しかし、それと同時に、やってもできなかった人に対しては、やった努力を完全に切り捨ててしまうネガティブな言葉になってしまう。
「やればできる」を「思考は現実化する」の文脈で解釈すると「できないのはやっていないから」となってしまう。
ハゲが禿げている理由が髪の毛を生やす努力をしていないせいになってしまう。
んなこたーない。
ほとんどが遺伝の問題であり、親ガチャの結果でしかない。
天賦によるものを努力の問題にすり替えられたらたまったもんじゃない。
現実はフィクションではないので、ハッピーエンドは用意されていないし、無慈悲で厳しい世界である。
やってできるケースよりも、やってできないケースのほうが多い。
だから実際は、人を励ます効果よりも、人の頑張りを無下にし、憎悪を発生させる機会のほうが多いのである。
よって、ポジティブの辿り着く先は人々の疲弊であり、その結果、ポジティブを投げ捨てて、匿名で罵詈雑言を書き殴ったり、マインドフルネスに目覚めたりするのである。
さらに自己啓発つながりで「起きていることは全て正しい」や「置かれた場所で咲きなさい」も同じだ。
老人が暴走させた車に引かれて嫁と娘を亡くした父親に、山中で行方不明の末に娘を亡くした母親に対して、観光漁船が転覆して亡くなった人の親族に対して、「起きていることは全て正しい」と面と向かって言えるだろうか?
亡命してきたウクライナ人に対して「置かれた場所で咲きなさい」と面と向かって言えるだろうか?
このように自己啓発で扱われる言葉は、ある程度の文脈を前提とした上で、用法容量を守って服用するものであって、無条件に言葉だけを切り取って「名言」だの「座右の銘」だの「珠玉の言葉」などにして祀り上げるのはどうだろうと思う。
薬が毒なのと同じことで、絶対的な自己啓発もまた存在しないのである。
自己啓発を過剰供給して暴飲暴食をしているから言葉のエントロピーが肥大して、言葉の価値がどんどん削られて、薄っぺらく相手に響かなくなっていくのだ。
で、最初に戻って「思考は現実化する」話し。
今までの例と同じく、この言葉も普遍的な話として受け入れるのは危険で、ある文脈上において用法容量を守って服用するのが正しい。
「勝つ気もないのに勝てるわけがない」はある程度正しいが、「勝つ気のないやつが勝つ」ことは現実には起こりうる。
成功者は成功する前から具体的な成功イメージを持っているのも、それはそうだろうと思うが、成功をイメージできるからといって必ず成功するわけでもない。
思考が全部現実化するならハゲもデブもバカもこの世にはいない。
思ったり考えたりする程度であらゆる問題が解決するなら、この世に悩みなど存在しない。
世の中で実際に起きていることは、思考が現実化しているのではなくて、現実が思考を形成しているだけである。
マイケル・サンデルの実力も運のうちみたく、因果が逆なのだ。
成功を強く思い描いていたから成功したのではなくて、成功した人が成功を強く思い描いていた事実があっただけなのだ。
それだけでは「成功を思い描くこと=成功」とはならない。
必要条件は満たせても十分条件は満たせない。
あれだけみんなが「5000兆円欲しい!」とSNS上で書きまくっていたのに、まだ誰も5000兆円を手に入れた者はいない。
ここで、本を読んだ人なら「それは軽い気持ちで思っただけであって、思考を現実化するためには具体的なゴール設定をして、その目標に到達するまでの具体的な道筋をつけて、かつ、それを実践しなきゃダメだよ」と反論してきそうだ。
それはそれでそうなんだけど、ここで主張したいのは、それが必ず成功するわけではない、ということである。
思考の現実化は一種の生存者バイアスとみることができる。
パラシュートの安全性を問われた製造者が「もちろん安全です。その証拠に今までパラシュートが故障した。などといった苦情は一件も寄せられておりません」と答えたのと同じ話である。
パラシュートが故障した人は全員死んだので苦情を言えないのと同じく、成功していない人が成功しなかったのは成功をちゃんと思い描いていなかっただけ、と切り捨てられただけの話だ。
明確な再現手順があって、誰がやってもその通りになるなら「思考は現実化する」と言い切ってもいいが、残念ながら再現度は低そうだ。
そこで、因果を逆にして「現実は思考化する」と考えてみる。
こっちのほうが現実に沿っている気がする。
例えば、これを読んでいる人はほとんど日本人だと思われる。
日本人は自分のことを日本人だと「思考」しているし、「だから日本人は〜」みたいなことも常々言ったり書いたりしていると思う。
なぜ自分に日本人の認識があるのかというと、日本で生まれて日本で育ち日本語を扱って会話しているからである。
日本人の親を持って日本で生まれ育ったのに「僕はアメリカ人だ」と考える人はいない。(ユダヤ人だと思っている人はたまにいる)
日本で育ち日本語をしゃべっている現実が、自分が日本人と考える思考を生み出しているのである。
現実の立場が思考を形作るのである。
さらに例を挙げると、ソシャゲのガチャの結果でもそうだ。
ピックアップ(当たり)がいっぱい引けたら「今回のガチャはユーザーを増やすために裏でひっそり確率ゆるくしてんじゃね?」と邪推してしまう。
しかし、一ヶ月後に同じゲームのガチャを回した時、今度はいくら引いても全然ピックアップが出なかったりする。
すると「運営は課金で利益を回収したいから裏でひっそり確率絞ってきてるんじゃ?」との邪推が発生する。
日頃の行いを良くしようが、触媒を用意しようが、祈りを捧げようが、ゲンを担ごうが、ゲームのプログラムが書き換わることはないので、排出確率は常にプログラミングされた内容のとおりとなる。
思考は現実を変えない。
しかし、排出確率は変わらない(現在は法律により提供割合が必ず記載されるようになっている)のにガチャの結果によって、人が何を考えるかは変わる。
現実(結果)は思考を変えるのである。
さらにもう一つ例を挙げると、さきほどのマイケル・サンデルの書籍の中で、親の経済状況が子供にも引き継がれる話が出てくる。
一昔前の話になってしまうが、大学に行く財力がある家庭の子供だと、大学に進学することは自然だが、貧乏な家庭の子だと、大学には行かず、高卒ですぐ就職して家計を助けようとするほうが自然だった。
なんなら高校すら行かずに中卒で働きだそうとする家庭もあった。
学歴をつけて公務員なり大手企業に就職しようとする「思考」でさえ、現実の家庭環境に左右されるのである。
現代においても、ほとんどの人が大学に進学しようとするのは、大学でなにか学びたいわけではなく、みんながそうしている現実があるからそうしているだけだ。
「我思う。故に我あり」ではなく「我あり、故に我思う」なのだ。(この表現はたしか、前掲の『肩をすくめるアトラス』にもあった)
思考から現実が帰納されるのではなく、現実から思考が演繹されるのだ。
個性という幻想でも書いたとおり、個性なんてものは環境要因が作り出した結果でしかない。
自分の考えなんてものは外から植え付けられたものがほとんどで、自分の中から完全な真新しい思考が湧いてでてくることはない。
といったわけで、思考が現実化するんじゃなくて、現実が思考を生み出していると表現したほうが正しいのである。