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個性という幻想

ホントのところをいうと人に個性などありません。

そもそも「個性」とはなんなのでしょうか。

google先生に軽く聞くと以下の定義が出てきます。

1.他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性。 「―的な人」

2.個体に特有の性質。

他の人と違ったサムシングかその人特有のサムシングがあればそれを個性と呼ぶようです。

そもそも、人と人はそれぞれ別人である時点で、他の人とは絶対に違う存在です。

ある人が存在していれば、それだけでもうその人には個性があるということです。

似たような性格であっても、一卵性双生児であっても、完全にピッタリ一致するということはなく、何かしらの差分はあるはずです。

そうなると個性という概念自体が「存在が存在する」というある種のトートロジー的な意味合いしかなくなります。

逆に考えて「個性的ではない人」を想像しようとした時にどんな人を想像するでしょうか?

そもそも想像できますか?

例えば、今日電車内ですれ違ったさえないサラリーマンを思い浮かべたとしましょう。

その人以外にも大量の人とすれ違ったのに、なぜその人を思い浮かべたのでしょうか?

その人とそれ以外の人の差は何だったのでしょうか?

例えば自分だったとしましょう。

自分に個性がないのだとしたら、自分に対して興味を持ったり持たなかったり、嫌われたり好かれたりする人がそれぞれいるのはなぜなのでしょうか?

そういうふうに考えていくとすべての人は無条件に何かしらの個性を持っているといえます。

……最初に個性などない、と言い出したにもかかわらず個性があるという話をしてしまいました。

では、個性は人それぞれに絶対的にあるものなのに、そこからさらにあえて「個性」という言葉を使っているのはなぜなのか?

「個性」という言葉はホントは「その時自分がその人に対して感じたこと」だからです。

個性という言葉はパーソナリティーに向けられたものではなく、自分の主観から見た相手の印象なのです。

個性は客観的な概念に思えますが、あくまでも主観的なものなのです。

人が個性だと信じているものは対象となる人に属するものではなく、評価する側に依存している部分が多いのです。

例えば、自分は話す相手によって取り上げる話題の内容が大きく違ってくるのですが、その結果、自分のキャラ付けが人によってそれぞれ全然別になったりします。

ある人から見れば野球好きの人であったり、別のある人からは哲学的な人であったり、さらに他の人からは音楽好きの人と見られたりします。

自分自身は何も変わらないのに、自分がどの話題を出すかで、自分の趣味が人によって違ったものになります。

自分の対応の違いによって相手からの印象が変わる、つまり相手によって自分の個性に対する解釈が複数存在することになります。

さらに、自身だけでなく自分以外の環境要因によっても自分の印象が変わってきます。

たまたま機嫌が悪い時に話をすれば、短気な人と思われ、逆に機嫌が良い時に話をすると穏やかな人という印象になります。

よく「機嫌をよくするのも仕事のうち」「何事も捉え方を変えればポジティブになれる」といいますが、世の中そんなに甘くはありません。

豪雨で家を流され子供も失った人に対して「落ち込んでてもなにも生まれないぞ。もっと明るく生きなきゃ」と言ってみたところで、その人の機嫌が良くなり明るくなるでしょうか?

状況によっては、どうあがいてもポジティブになれなかったり機嫌が悪くなってしまったりするものなのです。

パーソナリティーより、置かれた環境や人生における経験が、感情や思考・思想を形作るのです。

人はそれぞれ違う存在ではありますが、たいていにおいて人が人を評価する時、人生におけるある時点を切り取っただけのものになるので、それを属人的な性質と捉えるのは無理があります。

同じ川でも上流と下流では水質も水量も形も全然違います。

上流の水を調査した人は綺麗な川だといい、下流を調査した人は汚い川だという。

一つの川でも調査する部分が違うだけでぜんぜん違う結果になるように、人間も長い人生の一部分を切り取って判断したとしても、その人が「こういう人だ!」という一意性を見出したことにはならないと思うのです。

個性というのは万華鏡のごとく、ただ人それぞれの印象が常にうつろいながら無限に存在するだけなのです。

Tag: 哲学