ノブレスオブリージュ
(※念の為書いておきますが、ここに書いてあるノブレスオブリージュの語源は著者の創作です)
持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
マタイ福音書13章12節
ギブアンドテイクとか「まずは与えよ」みたいなものは欺瞞だと思う。
そもそも人に何かを与えるためには前提条件として自分が何かを授かっていなければならない。
人に何かを与えられる人は自分がギフテッドだという認識がないだけで、持たざる者に対して無理難題をふっかけているだけだ。
毎日しっかり三食摂取することができ、気持ちよく眠れる布団がある生活は日本に生まれていれば大体の人が手にすることができる。
しかし、発展途上国のスラムの人たちにとってはとても高い理想かもしれない。
それを「ご飯が滿足に食べれなくて温かい布団で寝れない生活なのは君の努力が足りないからだ」と言ってみたところで、そんなものはどう考えても個人の努力の差ではなく生まれた環境の違いのせいだ。
「人から愛されたいならまずはあなたから愛しなさい」だといい感じの言葉に聞こえるけど「人からお金をもらいたければまずはあなたから払いなさい」ってなったら、もともとお金を持っていない人はそもそも経済というゲームに参加することすらできない。
人により貧富の差があるように、人生によって愛や憎悪を受けてきた度合いも人それぞれなんだから、ギブファーストを基準にしたら、もともと愛を持つもの同士でしか愛に包まれた世界で暮らすことができないし、憎しみを持つものは憎しみ合うことしかできない。
これだと、富めるものがより富み、貧しいものがより貧しくなって貧富の差が開くばかりのような構図になり、救済の余地がない。
だから待たざる者は神に祈るようになった。
無条件で自分にギフトを与えてほしいからだ。
すべては神からの祝福から始まる。
人はそこから授かった力を持って何かを成し得るのだ。
まずは「持たざる者」から「持つ者」になりたいのだ。
持たなければそもそも何も始まらない。
「みんなができるはず」と無条件に思ってしまうのは持つ者の驕りだ。
自分がみんな持ってて当たり前だと思っていることも、案外みんな持っていなかったりするのだ。
だからノブレスオブリージュという概念を発明し、可能な限りみんなに神の祝福が届くように努めた。
人に何かを与えるという行為は、神からの授かったものを次の誰かに託す(ペイ・フォワード)ことなのだ。
ノブレスオブリージュというのは、神の祝福が届かなかった(no blessed)者に対して、神の代理として何かを与えなさい(oblige)、という救済の思想なのだ。
ギブアンドテイクはそんな救済の思想をないがしろにする無慈悲な考えだ。
人は何もせずとも存在するだけで祝福を受けるし、また無条件に祝福を授かるべきなのだ。
結局、最初に持つか持たないかは神の気まぐれガチャにかかっている。
Tag: 哲学