イチブトゼンブ
最近の科学では統計的アプローチが幅を利かせている気がする。
統計は英語で書くとstatisticsで省略形がstatsになる。
statsの方はスポーツやゲームで割とよく見る単語だ。
ボール保持率やパス成功率、打率や防御率、収集アイテムの取得数など、試合やゲームの結果を色んな分析要素を定義して数値として表現してくれる。
要は、できるだけいろんな要素を数値化して物事を解釈しやすいようにするのが統計的アプローチだ。
過去に何回か書いた気がするけど言葉にした時点でかなりの情報量が削り取られている。
そこから数値だけを抽出するとさらに情報が削り取られる。
挙句の果てには、人から人に伝聞されることによって削り取られるどころか変形して別の意味になったりする。
はたまたデータサイエンティストによって意図的な結論に誘導するために使われたりもする。
ともあれ統計となると数値として表現しなかった側、少ない側のデータはなかったことにされがちである。
100%に満たないのであれば、それがどんなに大きな要素であったとしても全体の中の一部分でしかなく、全てではないにもかかわらず。
95%の人に有意の結果が出た場合、とても素晴らしい結果のように聞こえる。
しかし95%に含まれなかった5%は無視される。
100人中5人、20人中1人と書くとかなりの割合にも思える。
1クラスに1人か2人は該当するということだ。
これはそんな簡単に無視できる数字じゃない気がする。
しかし統計は小さな不利益を捨てて大きな利益を取りにいく。
5人が幸せで95人が不幸であるよりかは、5人が不幸で95人が幸せであるほうが当然いい。
上条当麻でもない限りはみんな後者を選ぶはずだ。
数値化による有意性はほとんどの人にとって利益があるので、人類全体から見れば統計学は役に立つ学問であると言える。
ただやっぱり不利益はあるのでそこの部分はみんなもう少し意識を持ってほしい。
ダイバーシティを謳うならマジョリティーだけではなくマイノリティーも当然考慮に入れるべきだ。
統計学は学問なので、その結果はやはり「科学的」であるとされる。
みんなの「科学的」なイメージは0/100できっぱりと結果が分かれるものだと思う。
5+6は必ず11であり、たまに10になったり12になったりはせず、水(2H2O)を分解すれば必ず水素(2H2)+酸素(O2)になりNH3(アンモニア)などは発生しない。
これがみんなの思う「科学的」なイメージだと思う。
しかし最初に書いたとおり、統計はそうではない。
数式の例で例えると、95人には5+6=11となるが、残りの5人は5+6=10だったり5+6=12になったりする。
100%絶対に11になるという保証はない。
しかし「科学的」と言う名の虎の威を被るとあたかも100%絶対に11になるという世間通念が出来上がってしまう。
この統計学は優生学と非常に親和性があって、時にとても危険な差別や思想を生みだす。
例えばA地区とB地区といった区別やA人種とB人種の区別分けにより犯罪率を比較した結果、A地区やB人種の犯罪率が高いとする。
そうなればA地区は危険な区域という認識になるし、B人種は危険な人たちという認識になってしまい差別を助長してしまう結果になる。
しかも統計の結果、数値化されてしまっているし、そのデータをエビデンスとして提示されると言い返しにくくなる。
あくまでも全体の傾向でしかないものであるにも関わらず、A地区やB人種である事実だけを取って、そのようなレッテルを貼られて差別(区別)される。
100人中5人ぐらいだったらまだ少ないものの100中30人となってくると、かなりの人数が統計という名のレッテル貼りの被害を被ってしまう。
これは確かに全体としてみれば利益があることは確かだ。
B人種よりA人種と付き合うほうが犯罪に巻き込まれる確率は低いのだから。
履歴書の賞罰欄で前科持ちの人がいたら採用しないでしょ?
これは犯罪者の再犯率が高いのは統計で証明されているので、その結果、前科持ちを差別(区別)して採用しないようにしている。(ちなみに、よく企業が募集要件を大卒以上にしているのも似たような理由で、大学に行くお金のない貧困層をフィルタリングしていた名残。貧困家庭の子は素行が悪い可能性が高いため)
しかし、前科持ちの人でも再犯する人もいればその後は何も犯罪を犯さない人もいる。
さらに前科持ちであっても人は生きている限りは生きなければならないので、どこかしらの組織に属して飯の種を確保しなきゃいけない。
統計の結果、あぶれた側の人達にも人生があり、それがマイノリティーであったとしても完全に無視することはできない。
A地区やB人種を無視することはできないし、さらにその中にはそうでないにも関わらずにレッテルだけを貼られた、ほんとはマジョリティーなのにマイノリティーとして生きている人も犠牲にしてしまっている。
統計は傾向の問題を個人の属性にまで転嫁する。
統計はある一定量の例外には目をつぶりつつ、最大限の社会利益を追い求める。
マジョリティーからすれば一見、うまく社会がまわっているように見えるが、その裏のほとんどの人の目の届かないところでマイノリティーの人たちは苦虫を噛み締めながら日々を生きている。
このようにゼンブがイチブをかき消しながら、はたまたイチブがゼンブを飲み込みながら社会は突き進んでいく。
しかしイチブはゼンブではないし、またゼンブはイチブでもない。
統計はあくまでも「傾向」を数値化しているに過ぎない。
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