意味がない意味
言葉というのは人間の思想や感情を束縛する凶器になる。
自分がある思想の信奉者だと表明すれば、それ以後、自分はその思想という枠に束縛されるのだ。
思想の定義の中に腑に落ちない部分があったとしても、自分はその思想の信仰者なのだから、と無理やり自分に言い聞かせるようになる。
自分が表現者なのではなく、逆に言葉があなたを縛ってくる。
だから、あえて意味を追求せずにおいたり、言葉にもしない、ということも必要になる。
そうすることで自分の持つ感情に間違った概念を与えられたり、自分の中でゆるがすことのできない大切な何かを守ることができる。
そもそも言葉にならないものは言葉にならないし、それをさらに突っ込んで聞こうというのは無粋だ。
相手に無理に意味を求めることも、言語化させるという意味で相手の感情や思考を束縛する可能性がある。
意味を求めないことも時には大切なのだ。
ところで、なにか楽しいことがあったときに「楽しい」と感じた時、それはホントに楽しかったのだろうか?
自分が感じたことは「楽しい」なんだろうか?
感情を表現する言葉で「喜怒哀楽」という言葉があるが、この四種類の感情だけでは表現できない感情が実際には無限にあるはずだ。
これは虹を扱う表現に近いものがある。
一般的に虹は7色で表現するが、現実の虹は細かく分解していけば無限に近い色味を抽出することが可能だ。(といっても人間が識別できる色には限度があるけど)
しかし、基本的に虹の配色で7色以上の色名を用いることはほぼない。
幼稚園のお絵かきの時間でとある子が、赤と橙(オレンジ)の間の色を表現したいと思ったとしよう。
しかし、手元にあるクレヨンないし色鉛筆が12色セットだった場合、表現することができない。(いや、赤と橙を重ねて間色を表現する技法もあるけど)
しかたなく、表現したい色は諦めて、赤か橙どちらか自分が近いと思った方の色を使って描くことになるだろう。
これと同じように自分の中の感情が言葉として用意されていなかった場合、それに近しい言葉を選んで、自分の感情を表現することになる。
もしくは何かを言葉にしたとき、しっくりこない違和感みたいなものを感じてもそれ以外の表現が思いつかないのでそのまま表現する、みたいなこともある。
言葉として表現をしたものの、実際に自分が抱いた感情とはズレが発生するのである。
突き詰めれば全ての言葉は完璧に感情を表現できるわけではなく、あくまでも「この気持はこの言葉だな」と、なんとなく結びつけているだけなのである。
「楽しい」と感じたことも、限りなく「楽しい」に近いけれど純粋な「楽しい」じゃない別の何かかもしれないけど、それを言い表す言葉がないのでとりあえず「楽しい」ということにしているだけなのだ。
極端な例えだけど、もし世界に感情を伝える言葉が喜怒哀楽の「哀」の言葉しかなかったら、ムカついたり嬉しかったときにどうやって言葉で相手に気持ちを伝えればいいだろう?
とりあえず「僕は哀しいです」というしかない。
概念が一つしかないから「なにかしらの感情がわいた」という心の動きが発生したことしか伝えることができない。
それが怒りなのか嬉しさなのか悲しさなのかまでは言葉で分別できない。
自分の感情は言葉にした時点ですべて哀しいこととして処理されてしまう。
ムカッとした気持ちでも嬉しい気分であったとしても「哀しい」という言葉として表現してしまったら、この世界では「感情が動いた」ということだけで片付けられてしまう。(最近だと実際に「エモい」に集約されつつあるけど)
言葉にしてしまったせいで自分の中の怒りや嬉しさがそもそも存在しなかったことになってしまう。
ここまで極端な例はないにしても、現実世界でも言葉にならないことはいくらでもあるはずだ。
そして、意味を完全に一致させることはできなくとも可能な限りそれに近いパターンの状況を言葉として提供する試み、それが物語や詞(lyric)が持つ価値となる。
Tag: 哲学