"智慧" = "分別" > "経験" > "知識"
現代社会においては知識をたくさん身につければ身につけるほど良いとされています。
前回の文章でもそんな感じのことを書きました。
国は正しい知識さえ身につければ、みんながワクチンを打ってくれると信じています。
たくさんの知識を持っていれば、博識な人や知識人として認識され、人々からチヤホヤされることもあるでしょう。
ビジネスパーソンのみんなが意識を高く持ち、あらゆる媒体から情報を摂取しているのは知識を得ようとしているからです。
知識を得た意識の高い人々は「学び」や「気づき」といった経験値を糧にして成長し、人としてレベルアップしているそうです。
本当にそうでしょうか?
過去に知識と意思決定で書いたように、知識があるからといって正しい「行動」ができるとはかぎりません。
知識がいくらあったとしても、その人の行動を左右するのは周りの環境と自身の過去の経験です。
言葉の上では知識は大事だとされていますが、現実では我々は知識よりも経験を重要視しています。
いくつか例を出しましょう。
100冊以上の技術書を読み込んで、あらゆるプログラミング言語・設計思想に詳しい人がいるとします。
しかし、コードを一行も書いたことがなかった場合、その人をプログラマーとして迎え入れることができるでしょうか?
逆に、前提知識は何もなくても、色々試行錯誤した上で、自作アプリを作って、Appストアで公開するところまで一人でやっていたら、その時点でその人はプログラマーを名乗っても誰も文句を言うことはないでしょう。
MBAを持っていたとしても、過去の経営者の名書をどれだけ読んでいたとしても、実際に社長業をやったことがない人を経営者として見れますか?
こちらも、何も知識がない状態からでも、実際に起業して、ヒーヒー言いながらも1年間社長としてやっていれば、それだけで名実ともに経営者です。
人を採用するにしても、その人にいくら知識があろうとも業務未経験であれば初心者として扱うのが普通だと思います。
普段、私達は知識が大事だと思っているし、知識を身に着けようと頑張っていますが、実際は上記のように、知識よりも経験がその人の価値となるのです。
ただ知識を身に着けるだけでは価値がありません。
本当に役立つ何かを得るためには、知識を増やすよりも「経験」をしないといけません。
写真や映像で見る景色と、実際にその場で立って全身に浴びる感覚は全く別物です。
サン・ピエトロ大聖堂という言葉と、それにまつわる情報を知識として知っていることと、実際に現地にいって体験して得られる経験は雲泥の差でしょう。
知識だけでなにかの魅力を語っても、実際に経験した人の語る魅力には敵いません。
いくら野球の方法論を知識として覚えたとしても、実際に野球をした時に、その知識が役に立つことはほとんどないでしょう。
ルールは事前知識として覚えておいてほしいところですが、これも実際に試合を繰り返しながら学んでいくものです。
TVゲームだって、実際にゲームをしながら、何か分からない部分があれば取説を確認するぐらいで、最初に取説を一読しても、実際にゲームをプレイするまでは操作方法を熟達することはできません(最近のゲームは取説すらなくなって、プレイ時にチュートリアルを挟むことによって、実際に手を動かしながら学ばせるパターンがほとんど)。
知識が大事になるのは実践を踏まえた後の話です。
ポケモンのタイプ相性を暗記しても、実際にゲームをプレイしないとその知識は活きません。
知識は実践を前提として初めて価値を生みます。
知識は体験をより魅力的にするためだったり、効率的にするためのスパイスのようなものです。
スパイスはあくまでも味付けための存在であって、メインの食材ではありません。
あくまでも、メインの食材は実践から得た経験なのです。
タイプ相性という知識がなくてもポケモンで遊ぶことは可能ですし、プレイしながら自然とタイプ相性の知識も身についていきます。
メイン食材である肉・魚・野菜の原材料だけでも、食せば体に必要な栄養素は摂取できることと同じです。
しかし、それだけだと美味しい料理を作ることはできません。
そこで知識というスパイスが重要になってくるのです。
素材が良ければそれだけでおいしい食べ物になるのも、経験と知識の関係をうまく表していると思います。
素材(経験)があってこそのスパイス(知識)なのです。
ただ、まれにスパイスだけでカレーを生み出すような例外もあるのが難しいところですが、これもやっぱり米とセットでカレーライスとして食べるのが定番です。
このように、知識は実践による体験を経て初めて活きるものなのです。
さらに、実際に自身の体を使って体験することで、その分野のアウトプットの品質が分かるようになります。
これは、本を読んだり、TVや動画を観ているだけではダメで、ウィスキーは実際に飲んでみないと分からないですし、カメラも実際に自分で撮ってみて初めていろんなことが分かってきます。
モノの良し悪しや真贋の存在は知識として学べますが、その分別は体験からしか学習できません。
ウィスキーの製造方法や銘柄や特徴は知識として存在しますが、どれが自分にとって美味しいお酒なのかの分別は実際に飲んでみないと分かりません。
知識はメディアから吸収できますが、実態の分別は自分で経験しないと、できるようにはなりません。
これは、文化接触度が低いほど、判断能力の低い人間になってしまうことの原因として考えられます。
家庭環境の優劣がそのまま子供の優劣に結びついてしまう原因は、知識ではなく体験の差にあるのです。
知識よりも経験が大事だし、経験から生まれる判断はもっと大事なのです。
先ほどの料理の例えで続けさせてください。
良い素材(経験)と味付け(知識)で美味しい料理が出来上がりました。
あとは食すのみです。
そう、食してこそはじめて料理の存在理由が発生するのです。
食べられなかった料理はただの生ゴミです。
人間の体は食べたものでできています。
日頃何を食べているか(と運動習慣)で、だいたいその人が健康か不健康かに別れます。
偏った食事ばかりしていると、体調を崩しやすくなりますし、ひどくなれば成人病や痛風で痛い目にあうでしょう。
世の中に、どんなにたくさんの素晴らしい料理があふれようとも、その時々で何を食すかをしっかり「分別」しないと、栄養が偏って、いずれ病院で栄養食を食べる事になるでしょう。
ラーメンが美味しいからといって、永遠とラーメンだけを食べ続ければ体に悪いことは誰にでも理解できると思います。
このように、いくら知識や経験を得ようと、それをどのように活かすのかを適切に「分別」できないと、適切な「結果」を得ることができません。
体験を通じて無知の知を知り、知識でそれを補い、実践において判断を行う、このときの判断を人は智慧と呼ぶのです。
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