情報量と説得力
同じ現象を評価する際、人それぞれの経験や知識の差で、演繹される結論が違ってくる場合がある。
逆に、経験や知識に雲泥の差があっても同じ結論が演繹される場合もある。
ある現象をみて、Bの情報を持っている人がαを導き出したとしても、BとCの情報を持っている人はβを導き出すかもしれない。
さらに、BとCとDの情報を持っている人が、Bだけの情報しか持たない人と同じ解であるαを導き出すかもしれない。
このとき、同じ結論であったとしても、Bだけの人と、BとCとDの情報を持っている人では違いがある。
その違いは「確信度」にある。
Bだけの人はαを「何となくそうだろう」もしくは、なんの疑いもなく「それはそういうもの」ぐらいにしか思っていない。
しかし、BとCとDの人は、理論だった認識として「これがこうなっているからこうなる」と筋の通った理解を持っている。
同じ理解でも、理屈だった解釈を持ち合わせている方が確信度が高く、自分の中にある理解の解像度が高い。
この解像度の違いは、物事を他人に伝えるときの説得力に直結する。
理解の解像度が高いほど、相手に対して熱のこもった説明ができる。
物事を確信しているほうが断定的に論じることができるので、より説得力が増す。
「〜かもしれない」「〜だろう」「〜ではないでしょうか」より「〜です」「〜だ」と言い切ったほうが説得力は高い。
自分の中で筋が通っていれば、物事は断定的に表現できるはずだ。
自分の中の確信度が低いから「〜ではないでしょうか」で文章を締めてしまう。
「自分はこう考えたけど、あなたもそう思いますよね?」と、読み手の共感に期待してしまっている。
なぜそうなるかといえば、自分の中の確信度が足りないからだ。
ルフィが「海賊王に、俺はなるのではないでしょうか」と言ってしまったら、仲間は誰もついてこなくなる。
ちょっと話が脱線したので、結論が同じでも持ち合わせの情報量が違ったときの話に戻す。
例えば、その量りの針が指した重さ100グラムと一周回った1100グラムの針は同じ位置。同じ位置。同じ位置。
しかし実際の重さは違う。
見た目は同じでも重さの違いは実際に持てば分かる。
金メッキである黄金の鉄の塊と純金とでは、表面上は同じでも、重さは違うし、価値もぜんぜん違う。
いざ、質屋で売りさばこう(真価を発揮しよう)としたときに、やはりその重さの違いが致命的な致命傷になる。
このブログも、量りを何周も回し続けてきた情報の重さがあるから、三日坊主にならずに書き続けることができている。
もし、重さが100グラムしかなかったら、三日坊主で終わってしまっただろう。
ちなみに、何十周もするとその重さが積み重なって、いずれ量り自体を押しつぶしてしまう。
このとき、量りをぶっ壊した人がブレイクスルーを起こす天才となるのではないでしょうか。
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