イノベーションのジレンマ
というタイトルの有名な論文があります。
これからまさにそのことについて書こうと思うのですが、実のところ私は読んだことがありません。
しかしハーバードビジネスレビューは手元にあり、その中の「”イノベーションのジレンマ”への挑戦」は読んであります。
その上で、タイトルをテーマに書いていきます。
上記の読んだ方の論文から推測するに、イノベーションのジレンマとは大雑把に言えば、会社がでかくなれば色々と制約が増えるから、破壊的イノベーションが発生しにくくなり、長期的にはジリ貧になっていきますよ、ということだと思います。
上掲の本からそれっぽいことが書いてあった箇所を引用します。
ある仕事を成し遂げるためのプロセスは、それ以外の仕事を行うことを不可能にしているのだ。
時が経つと、組織の能力は(人材から)プロセスと価値基準とに重心をシフトする。
企業文化というかたちで刻み込まれると、組織の能力を変えることは極めて困難となる。
大企業にイノベーションを起こすことがこれほど難しく見える理由は、対応すべき課題があり、きわめて有能な人材を雇いながら、その課題とは相容れないプロセスと評価基準とを持つ組織構造内で働かせようとするためである。
以上のように、会社が大きくなるにつれて人間駆動から組織駆動にシフトしていくので、組織に染みついたプロセス・価値基準・文化・評価基準から逸脱した行動がとりにくくなるのです。
会社としては現状のビジネスモデルが頭打ちになった時のために、常に新しい収益の種を蒔いておいて将来に備えておきたいのですが、実際には安定している現状のライフサイクルが優先され、そういった先行投資ができない様をジレンマとして捉えています。
なお、現代の大企業はイノベーションのジレンマ問題をM&Aで解決しているようにみえますが、その話については割愛します。
上記のジレンマの話は一旦横に置いておいて、今回はちょっと視点を変えて、無秩序と秩序の関係からイノベーションのジレンマを考えたいと思います。
元のイノベーションのジレンマの話も突き詰めれば混沌と秩序の中庸をめぐる問題なのです。
大企業はたくさんの人が働いているので当然、それを支える土台が強固にしっかり築かれています。
大勢の人間をくまなく管理統制するためにはそれ相応のルールなり秩序が必要となります。
逆にできたてのスタートアップであれば一人、もしくは数人程度しかいないので、これといった規則をいちいち定めることは少ないはずです。
その分、その時その時の思いつきをすぐに実践に移しやすく、フッ軽で仕事を推し進めていくことが可能です。
規則の確認や把握、申請や承認作業、社内政治や根回しの有無は組織のアウトプット速度に直結します。
コーポレートガバナンスという言葉がありますが、管理統制の存在そのものは組織の機動力を下げています。
仮にキャンバスに絵を描いていたとして、クオリティを上げるために新しい筆を試したい、となったとします。
その場合、思い立ったが吉日、すぐに世界堂に行って筆を買い、領収書だけもらっといて、あとで会社に立て替えてもらう(個人事業主なら経費計上するだけ)のが最速だと思います。
それなりに裁量権が与えられていれば可能なムーブだと思います。
これがすごく秩序だった組織内だったらどうでしょうか。
まず、筆の扱いの取り決めが社内でどうなっているのか、規則を調べるところからやらないといけません。
そして、申請書を提出する必要があることが分かり、よく分からないたくさんの項目を埋めた後、さらに上司から承認をもらう必要もあるでしょう。
提出してもそこからさらに稟議に回されて、その回答が返ってくるまで数営業日待つことになるでしょう。
なんだったら社内に審査部門があって、筆の導入審査まで行われるかもしれません。
そして、無事承認された後も、備品登録申請やら立替申請やら、いろんな手続きを経て、やっと新しい筆が自分の手元にきます。
業務上絶対にする必要のあることなら百歩譲っていいとしても、少し新しいことを試してみたい、ぐらいのノリでここまで労力が必要だったとしたら、ほとんどの人は試すことを躊躇うでしょう。
人間、めんどくさいことは嫌なのです。
ルールは無条件に大事なもので前提としてとりあえずあった方が良い、というふわっとした思い込みが不文律としてみんなの中に刷り込まれていると思います。
しかし「めんどくさい」や「ダルい」という圧倒的なデメリットが、秩序やルールには存在するのです。
問題が発生する可能性があったとしても、ある程度は無秩序を許容しておかないと、秩序により発生する怠さによって人々の活動意欲が削がれます。
ボールを投げたい人間にボールを蹴ることしか許されないルールを押し付けても、ボールを扱うこと自体をやめるだけです。
少子化も社会が秩序化し過ぎて、「めんどくさい」や「ダルい」が積み重なった結果だと思っています。
戦後だったり発展途上国や紛争地域のようにカオスってる方が出生率は高いのです。
少し話が違うかもしれませんが、田中角栄待望論みたいなのもこれと同じパターンです。
政治家に秩序を求めすぎた結果として、そういう豪胆な人はそもそも政治家など目指さなくなり、稀代の政治家たりえる人物は待てど暮らせども一向に現れないのです。
人望もカリスマも実行力もあるなら、自由の少ない政治家よりもワンマン社長になって好き放題やってた方が人生を楽しめるはずです。
安定を継続させるなら秩序はとても大事ですが、さりとて、現状維持は衰退の始まりもまた然りです。
諸行は壊法ですから変化なきものは淘汰されます。
秩序だけを追い求め続けても、訪れるのはディストピア小説のような世界です。
ルールや取り決めをいくら積み上げても「めんどくさい」が勝てば、人は秩序を放棄するでしょう。
「呼吸をしてはいけない」と法律で決めたところで、そんなものは誰も守らないし守れないので、ただの絵に描いた餅にしかなりません。
禁酒法を作っても人々は隠れて酒を密造するようになるだけです。
このようにルールがあるだけでルールが守られるわけではありません。
ルールを守るという全員の実際の行動が、そのルールに存在価値を与えるのです。
逆に不文律であってもみんながそのように振る舞っていれば、そこに秩序は存在します。
ルールがあろうがなかろうが、その場の人間の行為だけが秩序に影響を与えます。
そして、人は自分に合った秩序の場を求めて集団を形成するのです。
ゆくゆくは、定められた秩序に適応できる人々だけが集まり、留まるようになるので、多様性もどんどん失われるでしょう。
そして秩序というコンパスがないと行動できない人間が量産され、より人々の行動は硬直化し、変化にも対応しづらくなるのです。
ですので、多少の無秩序(カオス)を受け入れないと、環境の変化に対応していくことはできません。
一番最初に話が戻りますが、成長して秩序だっていく組織とは逆に、その分、無秩序性が失われて変革や未来への投資への動きが取りにくくなる様がイノベーションのジレンマと被るのです。
ルールがあればあるほど色々とめんどくさくなるので「行動」の難易度が上がります。
しかし、自主性を発揮してもらうには可能な限り「行動」を起こしやすい環境を用意する必要があります。
そうなると、ルールや手順は少なければ少ない方がいいに決まっています。
規律やルールをてんこ盛りにしておきながら、革新性や自主性を求めるのは矛盾しています。
そもそもルールは自主性(自然権)を殺すために存在しています。
適切な管理運営のためには、問題を起こさないように行動力を削いでおかないといけないからです。
手を使ったらサッカーにならないように、行動を抑制するのがルールの本質です。
しかしながら、イノベーションを期待するなら行動力は最大限発揮できるようにしておかなければなりません。
本当はそういった二律背反を常に意識しながらルールや規律を考える必要があるのです。
ルールありきでしか物事を考えられなくなれば、例えば、スポーツが野球しかない世界だったら、野球のルールのアレンジはできても、サッカーやバスケなどの他の種目を創造することができなくなってしまいます。
しかし、ルールという前提を取っ払えば、いくらでも新しいスポーツを考案することが可能です。
適切に管理したいのであれば取り決めを増やせばいいですし、個性を発揮させたいだとか、人間の持つ能力を伸ばしたいのであれば取り決めは減らさなければいけません。
ただし、両方を同時に叶える銀の弾丸はなく、二兎を追う者は一兎をも得られないのです。