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(不)定冠詞と単(複)数形

日本語のコミュニケーションがうまく取れない一つの理由として、「a」と「the」の概念がないことと、単数形と複数形の区別を明確にしない、というのがあると思う。

「a」と「the」の概念というのは、コンテキスト(文脈)に依存した表現である。逆にいうとコンテキストの存在を強制的に意識させるものである。

物事を英語で表現する際、ある対象を指す時、利き手側がその情報についてどのような認識を持っているのかを意識しなければならない。

“a feature”といえば、その`feature`はまだ相手が何なのかを知らない状態である。

で、その後に“the feature”といえばその`feature`が「あ、さっきのやつね」と理解することができる。

しかし、日本語だと単に「機能」とだけで表現するので、それが相手側にとって既知かどうかを意識する必要はない。簡単に言葉が表現できる代わりに相手側に伝える情報量は減ってしまう。

次に日本語にない概念として単数形と複数形がある。

“an apple”といえば「ある一つ」のリンゴだと分かる。

“apples”といえば複数まとまった状態であるリンゴ(青果コーナーに並べられている山積みのリンゴかもしれないし、果物の種類としてのリンゴ全体を指すかもしれない)だと分かる。

そして日本語で「リンゴ」とだけいったとき、文脈がまったくなかったら、その「リンゴ」がどのようなリンゴであるかは相手側の想像に100%委ねてしまうことになる。

相手の頭のなかにある「リンゴ」に対して発言者側はほとんど介入できていない。

しかし大抵のコミュニケーションにおいて、発言者は自分の頭のなかにある「リンゴ」と、相手の頭のなかにある「リンゴ」が全然違うリンゴである場合があることをあまり考慮しない。

自分は赤いリンゴと思って伝えたのかもしれないのに、相手は青いリンゴとして解釈するかもしれない。

普段の何気ないやり取りだと、それでもだいたい大きな問題になることはない。(むしろ互いに違ったものを思い浮かべていたとしてもそれを明確にしないほうが平和は保たれる)

ただこれが、具体的な「指示」をしようとすると、そううまくいかなくなってくる。

「この千円でりんごを買ってきてね」とだけ指示しておつかいを子供に頼んだとしよう。

結果、その子は高いスーパーで高級なリンゴを一個だけ買って帰ってきてしまった。

そして子供に対して「一個だけでどうするのよ!家族みんなで食べようと思ってたのに!しかもいつも西友でお買い得なものを買ってるのに、なんでクイーンズ伊勢丹で買ってきたのよ!」と文句を言った。

この言い分はもっともだけど、頼まれた子供の方は「千円も預かったし、お母さんには美味しくていいりんごを食べてほしいな」と思ってそのような行動をとったのかもしれない。

買うべきリンゴを明確に定義していないからこそ悲劇がおきてしまった。

最初から「西友で5個入り298円の特売品になっているジョナゴールドを買ってきてね」と言えば子供もしっかり買い物を遂行することができたことだろう。

普段の日常会話では「リンゴ」と話題に出した時に、その品種や個数を厳密に想像する必要はあまりない。

ただ相手に指示を出してそれを厳密にこなしてほしい場合は、自分の頭の中にあるものを可能なかぎり正確に相手に伝える必要がある。

物事を正確に表現するためのツールが英語に比べて日本語には不足している。

先程の例だと“the apples”でかなり内容を伝えることが可能である。(「the」を使うためにはそれまでの会話でそのapplesがなんなのかを相手側に伝えている必要がある)

英語だと表現において定冠詞・不定冠詞と単数形・複数形の制約があるが、日本語だとそのあたりの縛りはとてもゆるくなっている。

言語仕様の差として日本語は英語より物事を厳密に表現する習慣がつきにくくなっている。

定冠詞・不定冠詞の存在により相手がその対象を認識しているかを認識しないといけないし、単数形・複数形の存在により対象がある単一のものを指すのかそれ以外なのか、の区別をつけないといけない。

自分の頭のなかにあるものを相手に対して厳密に伝えるためには、しっかり意識して相手に伝わるように伝えなければならない。

その意識のハードルが日本語だとデフォルトで低く設定されているので、意識してハードルを上げて、よりわかりやすい言葉と文章で相手に伝える必要がある。

Tag: コミュニケーション