「思」と「考」は水と油
コミュニケーション能力には大きく2つの側面があります。
一つは伝達能力で、もう一つは共感能力です。
ちなみに共感能力は厳密には能力ではなく、個人が持つただの感性です。
伝達能力では互いのリテラシーが必要になり、共感能力では互いのシンパシーが必要になります。
シンパシーは思考の「思」の部分を担い、リテラシーは思考の「考」の部分を担っています。
コミュニケーションはこの2つをきっちりと区別して運用することが大事です。
思うことと考えることは全く別の脳内活動です。
「思考」という日本語が2つの言葉の境界線をなくし、感情の発露と論理的な考え、という全く違った概念を同じ土俵に上げてしまったのです。
「思う」は自分の中にある(もしくはわいてきた)イメージがただ存在するだけなのに対して、「考え」は選択肢がある中でどれを選ぶかを比較検討する作業になります。
ある文章を読んで共感しただけでは、自分の「意見」を持ったとは言えません。
ただ、その意見に対して「そのとおりだ」と思っただけに過ぎません。
「考え」というのは複数の選択肢の中から自分が意識的に選んだものでなければなりません。
例えば、反対派のオピニオンだけを聞いて、それに共感して反対派になるのは「考え」からではなく「思った」だけの結果です。
賛成派からの意見も聞いて、その結果、自分が反対を選んで初めて自分の考えになり、自分の意見になります。
ほとんどの人は自分の意見や考えが存在するものだと思っているでしょうが、実際にはそれは意見や考えではなく、ただ「思った」という感情を抱いているだけなのです。
コミュニケーションに共感が大事なのは分かります。
誰だって自分の感性と合わない人と進んでやり取りはしたくないでしょう。
互いに共通感覚がある方が話しやすく、コミュニケーション頻度もあがるでしょう。
しかし、共感したからといって意思疎通が正確にできるとは限りません。
シンパシーを感じることとリテラシーの有無は別です。
シンパシーを感じるのに物事の正確な定義は不要です。むしろ邪魔です。
リテラシーは客観的な知識の集合体でなければなりません。
客観的なAという概念があり、そこに携わるみんながAをAと認識できなければなりません。
シンパシーにおけるコミュニケーションでは客観的な共通概念は重要になりません。
それぞれみんなの頭にある具体的な概念がBだろうがCだろうが、そこに携わるみんながそれをAと表現していれば、Aとしての共感をみんなで共有することができます。
哀しかろうが、懐かしかろうが、感動的であろうが、エモいと表現すれば、みんなでエモいを共感できます。
しかし、そこで厳密な意思疎通が必要になった場合、Aと表現していたものが人によって解釈がBだったりCだったりすると、物事が間違って伝わってしまいます。
「エモい感じの絵がほしい!」と作業を依頼しても、クライアントはカラフルで躍動感のある制作物を期待していたのに、デザイナーは渋いノスタルジー感じる制作物を仕上げてくるかもしれません。
共感能力だけをコミュニケーション能力としてしまうと、互いの表現と客観的な概念の解釈が一致している間はとてもスムーズに物事を運べますが、その歯車が一つでも狂うと途端に全てがあっという間に瓦解してしまうでしょう。
情熱的なカップルが最終的にはほとんど破滅に向かうように……
Tag: コミュニケーション