「頑張りを褒める」は害悪でしかない話
- 学生のためのベンチャー指南
「よく頑張った」って概念自体、大人が子供を元気づけるために発明した嘘にすぎない。
'一生懸命' < '普通'の続編的なサムシング。
資格を取ろうとする姿勢を見せた人は頑張っているとみなされて褒められるが、すでに資格を持っている人に対してはなにもない。
ブログの書き始めや習い事のやり始めは、周りの人に褒められるが、だいたい一週間後や数回やっただけでもうやめている。 それでいて、すでに数十ポスト以上のエントリを持っていたり1年以上継続的に続けている人に対してはなにもない。
スタート時点ではその人はまだなにも成していない。
マラソンにエントリーはしたが、いざ走り始めて1キロ地点で挫折したらそもそもマラソンをやったことにはならない。
でも、たいていはマラソン大会に参加するという話をした時点で「すごーい、応援するね」と称賛される。 その話の輪の横にいた人が実は毎月地方のマラソン大会に参加する歴戦のランナーだとしても(話の輪の中の人は誰も知らないし興味もない)。
この現実だけみたら毎月42.195キロ走っている人はなんの称賛もなく、1キロしか走らなかった人が褒めらたという結果になる。
マラソンはただの趣味だからどうでもいいが、これが仕事となってくると問題になってくる。
今から実力をつけようとしている人は褒めるが、すでに実力を持っている人は褒められない。
これだと、能力のない人のモチベーションは上がるが、能力のある人のモチベーションが下がる。
結果、能力者は去り、いつまでも無能な人たちで作業を非効率に行い、苦労を重ねるだけになってしまい、メンバーが成長する前にチームが疲弊して崩壊する。
合理的に考えるのならば、やれない人にやってもらうより、やれる人にやってもらったほうが効率的なはずだ。
本来「頑張って」なにかをしている時点でその行為は非効率だから褒めるべきではない。
昔から続く職人作業でも、頑張って作業をしているのは弟子の方で師匠の方はごく自然な流れで作業を淡々とこなしているはずだ。
だからホントは頑張っていない方を褒めるべきなのだ。もしくは結果だけに対して評価をくだすべきだ。
そもそも「成果」は頑張った「あと」にでるもので、頑張っているときはシュレディンガーの猫のように、それが成果になるのかならないのかはまだ分からない。
「頑張りを褒める」は大人に対してすることじゃない。