仕事は楽しいよりつまらないほうが合理的
「仕事は本来楽しいものだ」とか、「ワークアズライフ」などの思想は人類の1%くらいの人が思っている分にはいいけど、みんながそう思うのはよくない。
便所掃除を生業にしている人からすれば「知らないおっさんのこびりついたウンコを引っ剥がすことが我が人生か……」という結論になってしまい、仕事を辞めてしまって最終的にウンコが流れなくなる。
それは困る。
世の中に存在するすべての仕事は楽しいわけではないし、楽しくできるものでもない。
「仕事は楽しいもの」という概念を当たり前にしてしまうと「現実に必要ではあるが楽しくない仕事」は誰もやらなくなり、世界は回らなくなる。
そして、結局は楽しく働いている人の誰かが「現実に必要ではあるが楽しくない仕事」というハズレくじを引かざるをえなくなる。
そうなってくると「仕事は楽しいもの」という概念自体が世界を停滞させることになる。
それは困る。
「仕事は楽しくあるべき」という発想は一見ポジティブで良さげな考えに思えるが、実際には誰もしたがらない仕事がどんどん増えていくだけの結果を生むことになる。
最終的にはダンサーはいるが舞台を作る人もいなければ運営をやる人も誰もいないディストピアが生まれるだけだ。
みんなが熊川哲也なみに踊りが上手くなったとしても、その踊りを興行にできなければなんの価値もない。
ある一つの仕事だけが素晴らしいのではなく、それを支えるための数多の仕事が存在しているからこそ、素晴らしい仕事が素晴らしくあれるのだ。
本当はアーティストやクリエイターは社会インフラを支えている人には頭が上がらないはずなのだ。
それを自分が楽しく仕事をできているからといって、世の中のみんなの仕事も楽しくあるべき、などというのは無責任すぎる。
逆に「仕事マジクソだわー」みたいにグチを言う人は、文句は言うが仕事自体はしっかりやってくれる。
仕事をちゃんとしているからグチが出る。
表現はネガティブだが成果はポジティブだ。
宿題もやるから面倒くさいのであって、そもそもやらなければめんどいもクソもない。
仕事が楽しいという人だけが集まると実務がまわらなくなる。
仕事が楽しいと言っている人は無意識に楽しくない仕事を他人に丸投げしているので、楽しんで仕事している人の周りの人達は楽しくない仕事をしている。
楽しそうにしているから寄ってみたものの、いざ一緒に働くと楽しくない仕事をさせられるのですぐに人が去ってしまい、人の入れ替えが激しい状態になる。
「楽しい仕事」の裏にはこういった闇も絶対に芽生える。
光が射せばどうあがいても影はできる。
だから本当は「仕事は楽しいもの」ではなく「つまらない仕事にこそ価値がある」と思わせたほうが世界に対しては優しいのだ。
その点においては昔の宗教の教えのほうが格段に素晴らしかった。
仕事はカルマの解消であってダルマを積むためのもの、と言っておけば、つまらない仕事や苦しい仕事であってもやる意義を見いだせるのでどんな仕事であろうとみんながしっかり打ち込めた。
ところが「仕事は本来楽しいものだ」と言い出したら楽しくない仕事の存在意義がなくなってしまい、今まで辛い仕事や苦しい仕事をこなしていた人たちから仕事をする動機を奪ってしまうことになる。
そう考えると、なにも考えずに念仏さえ唱えてさえいれば救われる、とした親鸞は最高に合理的であるといえる。
仕事が楽しいとかつまらないとかそんな次元のことはどうでもいいから、とりあえずみんなには救われる可能性がある、としたのはすごい。
無条件にあまねく者を救いの対象にしたのは強い。
ポジティブはネガティブを救済しない時点でまだまだ旧来の宗教と比べ劣っている思想なのだ。
ちなみにマインドフルネスは「ポジティブだろうがネガティブだろうがとりあえずみんなには救われる可能性がある」を現代風に言い直した言葉なのだと思う。
苦しいことやつまらないことにも価値は必要なのだ。