< 科学と宗教の間 | 志望動機 >
文章量:約2800字

ふわふわ時間

今回は言葉の抽象度に関するお話です。

言葉の抽象度というのは、言葉の持つ解釈の幅広さです。

抽象度が高いほどより多彩な解釈することができます。

「建物」だと抽象度が高く、「東京タワー」だと抽象度が低い感じです。

詳しくはこちらを読んでください。

抽象度の高い言葉は使用コストが低いです。

ここでいう使用コストが低いというのは、色んな人に対して使いやすく、いろんな場面においても使いやすいという意味です。

逆に使用コストが高い言葉は、ある程度の語彙力と知識を持った人同士でないと使えない言葉です。

例えば「クソコード」は使用コストが低く、「オブジェクト指向のディシプリンに沿ってない」は使用コストが高いといえます。

抽象度の高い言葉は使いやすい分、意思疎通の正確さに難があります。

言葉の使いやすさと正確さの関係はトレードオフになっていることが多いと思います。

さて、抽象度が高く使用頻度の高い言葉の筆頭格は「ヤバい」でしょう。

日常的にとても使いやすく、かつ相手に対して共感を得やすいです。

とりあえず「ヤバい」といっておけば、とてもいい場合でもダメな場合でも、特に大したことがなくても、すべてのケースに置いて対処することができます。

何かを食べて美味しければ「美味しすぎてヤバい」になるし、不味ければ「不味すぎてヤバい」になるし、普通であれば「普通すぎてヤバい」という強引な解釈もありです。

「ヤバい」という言葉にはあらゆるコンテキストを内包してくれる懐の深さがあります。

それ故に、コミュニケーションにおける使用コストはとても低く、日常会話で多用されています。

そして、仮に相手に間違った解釈をされてしまったとしても、解釈の答え合わせをしない限りは穏便にコミュニケーションを進めることができます。

意思疎通の正確性の低いことを逆手に取り、発言した内容の責任の所在を有耶無耶にできるのです。

このような理由から、説明会見や国会答弁などの場では、具体的な言い回しは避けて、どうとでも解釈できそうな表現をひたすら繰り返すという現象が頻発するのです。

最近だと、小泉進次郎議員の発言は耳障りが良いが中身がない、と言われているようなことです。

使用コストが低い言葉は共感を得られやすく使いやすいのですが、その代償として正確さを犠牲にしているのです。

逆に使用コストが高い表現は、共感を得にくいですが正確性が高くなります。

だから、共感したからといって、その言葉や言説が現実を正確に捉えているわけではないのです。

いわゆる「分かった気になる」というやつです。

分かったという気分を感じられるのですが、正確性はないので実際のところは分かっていないのです。

おそらく、表現に対する正確性と共感性を同じ評価軸として脳が処理してしまったいるせいで、共感=理解という解釈になってしまっていると思われます。

普段の我々はあまり言葉の持つ抽象度を認識せずに生活しているのではないでしょうか。

俗に言う「空気」や「常識的に考えて」というコンテキストに無意識のうちにかなり依存してしまっていると思います。

身近な例でいうと時間の表現の仕方です。

ただ単に「3時」と言った場合、それだけでは昼の3時(15時)なのか夜中の3時かの区別ができません。

しかし、たいていの人は日中に活動し、夜中は就寝している生活をしているので「15時」という24時間表記の正確な表現をせずとも12時間表記の「3時」という表現で大体通じます。

ここで「3時というのは15時のことですか?それとも夜中の3時のことですか?」と確認すると「常識的に考えて昼の3時に決まってるやろ」となります。

ですが言葉の持つ正確性は「3時」より「15時」の方が高いのです。

これがお昼の仕事をしている日本人同士の話であるならあまり問題は起きません。

しかし、現在はグローバル社会です。

国を横断したプロジェクトがあったとして、その中で時間に関する話を出す場合、24時間表記どころか、どこの地域の時間か?というところまで気を使わないと正確に時間を合わせることはできません。

ここまでくると「3時」だけだと0〜23時まで全ての時間に該当する可能性が出てきます。

日本の15時はロサンゼルスだと前日の23時ですし、ロンドンだと朝の7時です。朝の3時だった場合、ロサンゼルスだと前日の朝11時ですし、ロンドンだと前日の19時になります。

もはや日付を合わせるのすら混乱します。

ここで24時間表記に加えてさらに、その時間がどこの地域の時間かを伝えなければいけません。

「JST(日本標準時)で15時」とか「UTC(協定世界時)で06時」とかです。

身近な範囲だと「3時」で済んでいたものが、コミュニケーションの範囲が広がるにつれ「日本時間の15時」とまで厳密に言わないと正確に伝わらなくなってしまいました。

「3時」→「15時」→「日本時間の15時」となるにつれ、知っておくべき前提知識が増えていくことがわかると思います。

最初はアナログの時計盤だけ読めていればよかったものが、1日が24時間という知識も必要になり、最終的には地域によって時間が違っており、世界協定で各地域の時間が定義されている、という知識まで必要になってきます。

「いやいや、うちでは最初にプロジェクトで使う時間を日本時間として決めているし、それを全員に承知させている」となったら「3時」だけの表現でつつがなく仕事を回せるかもしれません。

しかし、あとからプロジェクトに入ってきた人がたまたまその周知を知らずに勘違いする可能性も残されています。

やはり伝達の正確さを考慮するなら多少言葉の使用コストが上がったとしても「日本時間の15時」と表現したほうが良いことになります。

ただ、家族との連絡で「今日はJSTの19時に帰るよ!」とLINEしてしまうと「なんでいちいちJSTつけてんの?」となるので、相手やコンテキストによって言葉の抽象度を柔軟に変えていくことも必要です。

抽象度が低くなるほど他人行儀感が強く出てしまいます。

言葉の抽象度の低さには、人との距離感が離れていってしまうという欠点が潜んでいたりします。

説明くさい人間が煙たがられるのはこのためです。

今までの話をまとめるとこうなります。

使用コスト低
   ‖
抽象度が高い
共感を得やすい(人との距離感が近い)
使いやすい
正確さにかける
使用コスト高
   ‖
抽象度が低い
共感を得にくい(人との距離感が離れる)
使いにくい(相手や状況が限定される)
物事を正確に伝えることができる

言葉には抽象度があって、その抽象度をしっかり意識しつつ、状況と相手によって使い分けれることが大事です。

やはり何よりまずは、言葉は所詮どこまでいってもメタファーでしかなく抽象的であり現実を完璧に表現することはできない、という現実を認識することが大事です。

Tag: コミュニケーション