< 編集と真贋 | アウフヘーベン >
文章量:約2300字

ウォーリーをさがすな


件の記事を「『ウォーリーをさがせ』の例えが現代の行き過ぎたリベラル思想の弊害を端的に現しているなぁ」と別の考えを思い浮かべながら妙に納得して読んでいました。

そこで今回は自分の頭の中でわいてきたリベラルの弊害について書いてみます。

まずはじめに、リベラルの世間一般的な認識を列挙してみましょう。

「自由主義者」であること。

多様性に対して寛容であること。

何かしらの差別による不平等の解消(LGBTやBLM)にまつわる活動。

などが挙げられると思います。

リベラルの対義語とされる「保守」は上記とは逆で、過去からの慣習に従い画一的であり規律による区別を容認するといったイメージでしょうか。

現代の人権を大切にするイデオロギー下だと保守よりもリベラルが支持されやすく、現実に社会はそのように変わってきました。

リベラルには大きく2つの側面があります。

一つは過去の慣習からの解放で、もう一つは権利の主張です。

前者は校則で茶髪を認めるようにしたり、ハンコ文化をなくさせようとする取り組みです。

後者はLGBTの法的婚姻を認めることであったり、国会議員の女性比率を上げようとする取り組みです。

ここで英語のliberalの定義を見てみましょう。

willing to understand and respect other people’s behaviour, opinions, etc., especially when they are different from your own; believing people should be able to choose how they behave

wanting or allowing a lot of political and economic freedom and supporting steady social, political or religious change

他の人間の行動や意見に対する理解と尊重を持つ。

その違いを認め互いの選択を尊重する。

経済による自由さを認め、それに伴う政治や宗教の変化を社会的に容認する。

といった意味になります。

ちなみにliberalの語源のfreeじゃない方の自由、libertyの定義

freedom to live as you choose without too many limits from government or authority

です。

こちらはみんなの思い浮かべる「自由」という意味に近いと思います。

リベラルは「自由」と捉えるより「容認」と捉えたほうが合点がいきます。

要するにリベラルは自分の自由さを守る思想ではなく他人の自由を「容認」する思想なのです。

自分個人が他人を容認するだけに留まっていたのであればリベラルはとても素晴らしい思想だったでしょう。

しかし、他者の自由の容認を「強制」しようとするのは、それは自由ではなく束縛です。

「それだとリベラルは自由主義とは言えないじゃないか」となって、それとは別の自由主義としてリバタリアニズムが存在していたりもするのですが、ここではその話はしません。

リベラルは自由の追求ではなく自分とは違う他人の容認であり、その容認を積極的に社会に浸透させようとする活動であることが分かりました。

LGBTを広めている人はレズやゲイの人よりヘテロの人のほうが多いし、BLMの活動家は黒人以外の人のほうが多いし、女性参画社会について議論しているのはほとんど男です。

何故か当事者ではなくその周りの人たちが火に油を注ぐがごとく他人の自由の容認を「強制」しようとしているのです。

さて、ここで話をウォーリーをさがせに戻しましょう。

『ウォーリーをさがせ』は読んで字のごとくウォーリーを探す絵本です。

ウォーリーを探すことに価値がある絵本です。

ここにある一人の変わり者が現れます。(※ここから先のこのお話はフィクションです)

「僕はウォーリーを探したくない。ウォーリーを探すことを強制される筋合いはない。僕は人の密集具合や絵全体の乱雑さを眺めるのが好き」

確かにその通りです。

別に『ウォーリーをさがせ』をウォーリーを探さずに読む自由は誰にでもあります。

そして、その意見を聞いた意識の高いリベラルの人がこのような意見を持つわけです。

「そうだ!!我々は『ウォーリーをさがせ』でウォーリーを探す必要なんてなかったんだ!みんなウォーリーを探すのをやめてみよう!この子みたいに新しい楽しみ方が生まれるぞ!」

となってみんなに啓蒙しだします。

その子だけが勝手に自分の楽しみ方を見つけて楽しむ分にはなんの問題もありません。

しかし、先程の啓蒙が発展していって「もうウォーリーを探す時代は終わったんだ。ウォーリーを探さずに別の楽しみ方をするべきだ」といった先鋭的な思想に変化していきます。

それを真に受けた普通の人々は『ウォーリーをさがせ』からウォーリーを探すことをやめてしまいます。

しかし、ほとんどの人間にとってウォーリーを探す必要のない『ウォーリーをさがせ』はただのつまらない絵本にしかなりません。

そして人々はしだいに『ウォーリーをさがせ』自体を読まなくなるでしょう。

リベラルの人が良かれと思って啓蒙した結果、ただ『ウォーリーをさがせ』の価値だけが毀損してしまったのです。

絵本は誰にも読まれなくなるし、今まで楽しくウォーリーを探していた人の楽しみも奪われました。

自由を啓蒙していたはずなのに、何も新しい価値は生み出せずに一つのエンターテインメントの価値を台無しにしてしまったのです。

なぜそうなってしまったかというと、リベラルは自由を啓蒙する思想ではなく、容認という束縛を強制する思想だったからです。

保守には保守のちゃんとした存在理由があるのです。

ウォーリーを探さない自由は認めるべきですが、ウォーリーを探す「過去からの慣習」も同時に守る必要があるのです。

Tag: 社会