< 可能性の可能性 | 恋のダニング=クルーガー効果 >
文章量:約1400字

限界を超えるな

某ビールのCMで某元メジャーリーガーが「限界を自分で作るべきではない」と言っていますが、「限界」の価値を履き違えています。

限界とは境界線を意図的に設定することであり、その存在自体が価値なのです。

「限界を設定したらそこまでしか成長できない」や「限界を越えろ」みたいな言説をよく聞きますが、これは耳障りが良いだけでほとんどの人にとってはむしろマイナスの作用しかありません。

超えてはならない一線だから「限界」なのです。

それなのに、限界を超えたら「新しい自分」だの「新しい景色」だの「圧倒的成長」が待っていると思い込まされています。

アニメやスポーツドキュメンタリーなどはあくまで視聴者を楽しませるためのエンターテイメントなのですから、ただの娯楽作品の一種です。

それを額面通りそのまま受け取ってはいけません。

どんなに努力しようともテニスの王子様のような必殺技を繰り出すことができないように。

スポーツ選手が限界を超えて様々な記録を塗り替えているように見えますが、別にそんなこともないのです。

表現上「限界」があるように思わせて、それを突破したような演出をとっているだけで、実際は限界など超えていません。

例えばです。

自分がランニングを始めて最初の頃は6kmをキロ5分を切るペース(30分以内)で走るのは相当きついだろうなぁ、と思っていました。

しかし、数年も走っているうちに10kmをキロ4分半のペース(6kmまででも27分以内)までの速さで走れるようになりました。

こういったことを世間では軽々しく「限界を超えた」みたいな表現をします。

もしくは「限界を作らなかったから目標よりもさらに速く走れるようになった」みたくポジティブな表現もできるでしょう。

しかし、別に自分は限界など超えてはいないし、サブ4レベル(フルマラソンを4時間以内で走ること)の人と同じぐらいのランニング量しかこなしていません。

そのサブ4でさえ、ちゃんとしたトレーニングを積めば誰でも到達可能な目標だと言われています。

要するに、自分はただ趣味でなんとなくランニングをずっと続けていたら、そこそこの筋力と心肺能力が身について、それ相応に長距離走のタイムも縮んだだけなのです。

本当に限界を超えて走っていたのなら、体のどこかしらが故障してランニングの習慣自体が途絶えていたかもしれません。

ただ8年ぐらい走ってきて体を故障させたことは一度もありません。

限界を超えなかったからこそ体は順調にランニングに適応し、長く趣味として継続できていて、かつ、健康とプロポーションの維持に役立っています。

イチローや大谷選手だって別に限界など超えていません。

たまたま人類の限界を越えるようなパフォーマンスが出せる才能と身体能力を持ち合わせていただけで、彼らにだって限界はあります。

現にイチローはもう引退していますし、大谷選手だって40歳を過ぎてまで今のような2刀流の活躍を続けるのはほぼ不可能でしょう。

サッカーの三浦知良選手は限界のはるか先にいるような気がしないでもないですが、彼の場合は限界を超えたというよりもW杯の怨念で動き続けているゾンビに見えます。(個人の感想です)

キングカズのことはさておき、一般的に限界を越えた先に待つのは破滅です。

池の貯水量が限界を超えればダムは決壊するし、日常的に摂取している水や塩・砂糖だって致死量という概念が存在します。

破滅するからこそ「限界」を設定して、それ以上にならないようにしているのです。

だから本当は「限界を自分で作るべき」であり、それを守って自分の日常を大切にし、安定させるべきなのです。

そう、一生懸命より普通がいいのです。

Tag: 哲学