哲学の価値
政府の働き方改革や、ブラック企業、ホワイト企業について、リモートワークやワークライフバランスなどのニュースや記事を読みながら「そもそも働くとは何か?」ということを考えたことはないだろうか?
多分考えない。
あくまでも「ブラック企業はクソ、ホワイト企業が当たり前」「ワークライフバランスを取るために企業はフレックス制やリモートワークについて取り組むべき」などなど、オピニオン(記事という媒体はただ事実を伝えるだけでなく、何かしらの「意見」や世論誘導を含んでいる)に対しての同調や反感などの感想ぐらいしか思いつかないとおもう。
通常、人はあまり言葉の定義を意識しない。
上記の感想例でも「ブラック企業」「ホワイト企業」「ワークライフバランス」などの言葉もかなり定義が曖昧だと思う。
日常会話レベルだと言葉やセンテンスの雰囲気が醸しだす空気感に対して条件反射的に感情を表出することぐらいしかしていない。
言葉の定義を追求しないということは、言葉の解釈権を相手に丸投げしているのと同じことだ。
言葉には解釈権という概念がある。
以前のエントリでも触れたように、言葉は結構あやふやなもので、ある言葉に対してすべての人が100%完全に同じ解釈をする、ということはありえない。
「働く」という言葉一つとっても、その解釈は人によって千差万別である。
ある行為を前にして、Aさんはそれを労働と認めたが、Bさんはそれを労働として認めない、ということはいくらでも起こりうる。
現実のやりとりでは「働く」という概念が人によって玉虫色に変わるのである。
そうなってくると、自分の中で明確に「働く」ということを定義しておかないと、「働く」という言葉の解釈を相手側に勝手に決めつけられることになってしまう。
例えば、「働くことはお金を稼ぐこと」と自己定義しておけば、多少サボっていたとしても売上という実績があれば「オレはちゃんと働いている」と自分に自信を持つことができ、強く相手にいいよることができる。
相手に決められた価値観を突きつけられ続けることで、どんどん自分のテリトリーが狭められ、最終的には言葉にがんじがらめにされ身動きがとれなくなってしまう。
そこでの救いが哲学である。
言葉を相手や世間の解釈に任せるのではなく、自分でしっかり定義することで足元を固め、相手に主導権を握らせないようにするのである。
哲学とは自己問答である。
ある言葉を改めて自分で定義し直すことが哲学である。
究極的には完全な言葉など存在しない。
人類誰しもが言葉を完全なものにすることはできない。
定義という言葉の英語にあたるdefineという単語は
the finish → de fin → define
という語源(諸説ある、たぶん)があり、完全にはならないけど、とりあえずのところで打ち止めにする、とりあえずこういうことにしておく、という意味が込められている。
言葉の定義など、その程度の仮りそめのものである。
だったら、自分で言葉を定義して、その武器を持って相手と渡り合えばいいのである。
言葉の定義をあやふやにしたまま相手と会話をするのは、丸腰で戦場に赴くようなものだ。
哲学というのは相手と討論して戦うときのための武器となるし、相手の言葉に言いくるめられないようにするための盾ともなる。
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