< antiタスク分解論 | 天才を殺す凶器 >
文章量:約1500字

ドーナツホール

ドーナツの穴は穴じゃなくて実際は何もありません。

ドーナツという存在によって初めてドーナツの穴が生まれるのです。

ドーナツがなければそこには何もありません。

子供っぽい屁理屈で言えば空気があるだけです。

日本人の一般的なイメージとしてドーナツの穴はドーナツがドーナツとして認識されるための重要な要素です。

しかし、ドーナツをドーナツたらしめているドーナツの穴は、穴を穴だけ切り取ることができません。

ドーナツを食べればドーナツの穴も同時に無くなります。

このように、存在しないものが別の存在によって存在するようにみえることがあります。

「無知の知」も少し似たような構造をしています。

知識の大きさを円に例えて円の外側を無知の領域とします。

知識が増えて円が大きくなると、同時に円周の長さも増えます。

結果、無知の領域に対する接合点が増えて、知れば知るほど、自分がまだ知らないことに対する認知が増えていくという現象が起こります。

よく人が「完全に理解した」と言い出したと思ったら、次に「何も分からない」と言い出して、最後に「チョットデキル」と控えめに発言する現象が起こる原因がこれです。

ドーナツは真ん中が空洞ですが、無知の知の円だと外周円の外側がドーナツホールに該当します。

図1

ドーナツでも知識でも、何かが無いことは何かがあることによって初めて可視化されたり概念としても認知できるようになります。

こういった現象は、人間社会のあらゆるところに潜んでいます。

潜んでいるどころか、ドーナツにおけるドーナツの穴の部分こそがあらゆる物事の本質だと思うのです。

東京は世界的に見ても大都市ですが、その大都市の中心にあるのはなんでしょうか?

実は東京の中心には何もないのです。

ビルも建っていなければ電車も通っていません。

東京もドーナツのような都市構造になっていて、山手線も首都高も環状線上に走っています。

それは何故でしょうか?

それは東京の中心は皇居だからです。

突き詰めていえば東京の中心は天皇陛下が存在するだけの土地です。

そして当の天皇陛下は別に何かを生産しているわけでもなければ統治しているわけでもなく、日本の象徴として存在しているだけです。

社会活動の熱量として評価すれば、そこは「無」になります。

しかし、日本の本質は何かと問われれば、天皇陛下の存在そのものとなり、すなわちそれが国体となっています。

まさにドーナツホールのような構造になっています。

ちょっと話が大きくなりすぎたので、目線を身近なところに向けます。

我々庶民の一人ひとりのパーソナリティーについてもドーナツホールの構造が成り立ちます。

以前に個性は幻想という文章を書きましたが、個人の人格もドーナツの穴と同じで実際には存在しないのです。

普段、実際に接している人々とのやりとりで、その人たちが自分に対して「この人はこういう人だ」という認識をそれぞれ持つようになります。

相手によって自分のどこかしらの部分が噛じられて、その時の味がその人の印象になります。

そして、部分部分を味わったそれぞれの人の印象で「この人はこういう人だ」というふわっとした人格が形成されます。

その人格がその人のコアとして存在するかのように扱われます。

しかし、当の本人は状況や相手によって食べられる部分を変え続けているだけで「ホントの自分はこれだ!」という中心部分は空洞なのです。

周りも自分もドーナツの存在によりドーナツホールを認識しているに過ぎないのです。

図2

よく物事には本質があるように語られますが、実際のところ本質などないのです。

ペルソナを通して中の顔が存在すると思い込んでいるだけで、仮面がなくなれば全てなくなるのです。

「噓から出たまこと」と言いますが、そもそも嘘がないとまことは存在し得ないのです。

Tag: 哲学