優しさを殺す凶器
平等や均等は万人に対してとても優しそうな思想に思えます。
しかし、これが人間を一番苦しめているものの正体だと言ったらどう思うでしょうか?
みんなが同じ扱いを受けて、みんなが同じだけ機会を得られる。
それだけを聞くととても良い感じがします。
しかし、みんなが同じということは、結果が違った場合、その責務が全て当人に向けられるのです。
これはとても厳しいことです。
例えば、成功した人と失敗した人がいれば、失敗した人が100%悪いことになってしまいます。
みんなが平等で同じ条件であるならば、成功は本人の努力の賜物であり失敗は本人の努力不足という結論になってしまいます。
失敗は失敗した人の自堕落が原因だから、成功者が失敗を非難することはあっても進んで助けてあげようとすることはないでしょう。
日々、食事と睡眠と運動を気にかけている人間が、毎日無頓着にピザとコーラを貪っているデブから「痩せたい」と言われても自業自得としか思わないように。
よって、平等主義を進めれば進めるほど他人に優しい世界ではなく、他人に厳しい世界になっていきます。
人それぞれの不均等を自覚したうえで「こいつのこの部分は自分より劣っているから助けてあげないとな」と思わないと優しさは生まれません。
先ほどのデブの例だと「暴飲暴食なのは自分よりストレスの多い生活を送っているからかもしれない」と自分との「違い」を自覚したら、「だったら『デブでも食ってろピザ』と一蹴するのはかわいそうかもしれない」と優しさに目覚めるかもしれません。
優しさとは能力のあるものが能力のないものに対して行う一種のノブレスオブリージュなのです。
平等の名のもとに順位付けを失くしてみんなで一緒にゴールをしてしまったら、現実として存在する能力差が隠蔽されてしまいます。
そうなれば、本来ノブレスオブリージュで救済されるであろう人が、その恩恵を受けることができず、自己責任という大義名分のもと、ノーガードで袋叩きにあってしまうのです。
不平等が可視化されているからこそ優しさが生まれるのです。
動くのが遅いと分かっているからこそ、その人に合わせてペース配分を調整することができます。
そもそも遅いことすら分からなければ、一人一人がそれぞれのペースで動くことしかできなくなり、他人とペースを合わせるような助け合いが発生する機会自体がなくなります。
皮肉にも平等を目指した結果が不平等を拡大してしまう結果につながってしまうのです。
20代で起業するほど熱意のある人間と20代で浪人の末ニートになってしまう人間を平等に十把一絡げにしたところで、前者はより社会で活躍し続け、後者はより社会から置き去りにされるだけです。
セーフティーネットを置かず、状況をただ放置していても格差がどんどん広がっていくだけです。
不平等であるからこそ、力のある人は力のない人を助けようとします。
そこを、みんな同じにしてしまうと助ける動機が消失してしまうのです。
男性と女性の関係にも同じことが言えます。
男女ともにそれぞれに優れている部分と劣っている部分があります。
互いの不平等を互いの優しさで補っていくべきなのに、男も女も同じ扱いにしてしまったら互いに支え合う理由がなくなってしまいます。
支え合う理由がなくなってしまえば繋がる機会は減り、別れる機会が増えることになります。
まさに少子化一直線です。
また、リベラル関連の話題で続けて例を出すとダイバーシティ(多様性)も平等と相性がよくありません。
多様性で差を認め合うことと平等であることは水と油の関係です。
差があることは不平等であることと同義です。
金と銀とプラチナは別々の金属であり、カレーとラーメンとハンバーグは別の料理です。
それぞれにそれぞれの良さがあって魅力的ですが、金を要求して銀を差し出されたら到底納得できないですし、カレーを注文してラーメンが出てきたら少し気分を害してしまうかもしれません。(こっちはそれでも満足できそうな人が多そうな気もしますが)
人間には人それぞれで好みの違いがあります。
しかし、多様性の差を埋めるには一人一人の選り好みを抑制する必要が出てきます。
カレー好きにカレーが提供されればいいですが、カレー好きにラーメンが提供されたりラーメン好きにカレーが提供された場合、小さな亀裂が生まれます。
大枠でみればカレーもラーメンも料理としての一品でしかなく「食事が提供された」と捉えれれば互いに平等に機会が提供されたことになります。
カレーもラーメンも「一食」であることに疑いはありません。
ところが、ラーメンを提供されたカレー好きがいる一方で、カレーを提供されたカレー好きがいた場合、ラーメンを提供された方はカレーを提供された方に対して嫉妬心を持つことになります。
とはいえ「みんな平等に一食振る舞った」という見方からすれば世界は平等なのです。
多様性を認め合う世界では多少の違いについていちいち異議申し立てを受け付けてくれません。
料理がカレーしか存在しない世界であれば真の平等が実現したでしょう。
しかし、人の趣向の違いを考慮すると、カレーだけでは万人を満たすことはできません。
料理に種類が存在する時点で料理の概念は不平等であり、どうあがいても料理ごとの差が発生してしまいます。
個人ごとの趣向の違いと料理ごとの違いはいくら言葉で言いくるめようとしてもどうにもなりません。
はたまた、ケータリングパーティーでアルコールを用意する状況を想像してみてください。
一種類だけ用意するのではなく、ビールやチューハイ、ハイボール、さらにビールもメーカー別に複数買って、さらにアルコールが飲めない人用にオレンジジュースと烏龍茶と、ある程度のバリエーションを担保するのが普通だと思います。
それらを参加者に分配すれば、需要と供給が合わず、スーパードライが飲みたかったのに一番搾りで妥協する、といった状況も発生するでしょう。
マクロでみれば平等ですがミクロで見た場合、人それぞれの趣向の違いにより不均等が発生し平等ではなくなるのです。
このように多様性を受け入れつつ平等を目指すことは矛盾を内包しています。
一見平等で平和なように見えているのは、ラーメンを提供されたカレー好きの人が「本当はカレーが欲しかった」という思いを胸の奥に押し殺しているおかげであったりするのです。
一度不満が爆発すれば「俺にもカレーをよこせ」と反乱が起きてしまいます。
カレーやラーメンぐらいの差であればまだいいのですが、これが金と銀ぐらいの差になってくると「同じ金属」という括りで納得する人はいないでしょう。
誰だって銀よりも金のほうが欲しいはずです。
平等を実現しようとしても多様性がそれを許しません。
そこをいくら口先だけで「平等」を実現しようと、現実には多様性が生み出す「差」によって不平等が発生し、そこから徐々に煙が燻ってきます。
表面上「平等」が観測される裏には小さな(人によって大きな)不平等を噛み殺している現実があるのです。
不平等を噛み締めながら「平等」に貢献している人からすれば他人の「小さな」不平等に対する不満を認めることはできません。
「こっちも我慢してるんだからお前も我慢しろ」という考えになるのは自然なことです。
多様性を受け入れるほどこういった我慢を要求される場面が増え、人々からどんどん自発的な優しさが喪失していきます。
違いを認めなければ他人を助けようとする優しさは生まれず、かといって違いを無理やり認めさせても優しさを奪う結果になってしまいます。
ある程度は自然な動的平衡に身を委ね、強制(人為)的な平衡(平等)は必要最低限にとどめておかないと、より凶悪な歪みを生むことになるでしょう。
平等こそが優しさを殺す凶器だったのです。