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メタ認知保険

人権や反差別のリベラル思想が昔に比べて強くなっています。

平等の実現や多様性の許容に関する有言無言の圧力が全人類にかかって久しい昨今です。

昔では許されていたことが「今の時代にそれは許されない」ということで、様々な言葉や行動に制約が課せられてきました。

マスター・スレイブはプライマリ・レプリカに言い換えられ、子供が悪さをしても簡単にゲンコツを浴びせることもできなくなりました。

さらにその上に、昔はあまり気にしていなかったマイノリティーに対する配慮も必要になりました。

人種だけにとどまらず、LGBTや境界性人格障害など様々なマイノリティーが定義され、その数だけ配慮の必要性がでてきました。

あらゆる方面に配慮を求められる現代社会ですから、少しでも気を抜いて不用意な行動や発言をしてしまえば、インターネット上で瞬く間に炎上し、庶民のエンターテインメントの肥やしになってしまいます。

そんな現代社会の抑止力として、意味の解釈範囲が広い言葉が近年多く使われるようになってきました。

「すごい」「やばい」「かわいい」などがその代表例です。

「やばくね?」「まじやばい」などのやり取りだけで会話が済まされるさまを「最近の若者はボキャブラリーが貧弱」などと嘆く風潮もありますが、これはインフレしつつある配慮をすり抜けるための野生の思考の結果だと私は考えます。

言葉の解釈範囲が広ければ、その言葉の意味は受け手側に委ねることができ、発言者の責任を有耶無耶にできるのです。

言葉の持つ隠喩性(メタファー)を利用し、その認知を他人に委ねることで解釈(言葉の意味)に保険をかけることができることから、この抑止力の概念を“メタ認知保険“と名付けてタイトルにしました。

近年登場した解釈範囲の広い言葉としてまず浮かぶのが「エモい」です。

喜怒哀楽に代表されるように感情表現に関する言葉はたくさんありますが、そのすべての心の動きを代弁できる懐の深さを持ち合わせています。

エモいの語源は多分英語のEmotionalからきていると思いますが、その意味は「感情的な」です。

よって意味的には「感情が動いた」ぐらいの意味でしょう。

感動しても使えるし、嬉しい気持ちでも使えるし、同情したくなるような気持ちでも使えるでしょう。

感情が動いたことだけを表明して、その詳細には言及しません。

「悲しいのか感動したのかくらいはっきりさせろよ」と思うかもしれませんが、このどうとでも解釈できる部分にメタ認知保険の抑止力としての強さがあります。

多様性がインフレーションしている現代では周りにいる人の環境や場面によって自分が「楽しい」と感じても、それがその場ではそぐわない、といったケースもでてきます。

そこで解釈度の高い「エモい」を使っておけば、自分と他人の解釈が多少違っていても特にコミュニケーションに齟齬を起こすことなくやりとりができます。

あえて意味をあやふやにしておくことで、平等に対する配慮も多様性に対する配慮も実現することができます。

「ヤバい」はもっとヤバいです。

一昔前ではダメなシチュエーションでしか使用しませんでしたが、今では「最高に素晴らしい」の意味でも使用できます。

悪かろうが良かろうがどちらでも「ヤバい」で表現できます。

これはほんとにヤバいです。

上記の文もヤバいという言葉がとても素晴らしいという意味でも通じるし、危険だな、という意味でも通じます。

現にその両方の意味を込めて「ヤバい」という言葉を使っています。

メタ認知保険としては最高の言葉です。

しかし、意思疎通の精度としてみれば「危険」でもあるのです。

「かわいい」という言葉もネガティブな要素を強制的にポジティブな意味に塗り替えてくれる力強さがあります。

「かわいい」の解釈は客観的な指標ではなく主観に全て委ねられています。

自分自身が「かわいい」と思っていれば他の第三者の主観を差し置いて「かわいい」と表明していいのです。

爬虫類好きの人が家で飼っている蛇に対して「かわいい」と言うのは何も不自然ではありません。

しかし、自分は爬虫類が苦手なので蛇に対して「かわいい」とは到底思うことができません。

「かわいい」は他人がそう思っていなくても自分がそう思っていれば堂々と使うことができる、解釈範囲を自分で定義していい便利な言葉です。

こちらは、言葉の持つ隠喩性(メタファー)を利用し、その認知を自分に束縛することで相手にそもそも意味を解釈をさせないようにし、リスク自体を打ち消すタイプの保険です。

そして、メタ認知保険の究極形態が絵文字です。

もう語彙がどうのこうのではなく「そもそも言葉を使う必要なくね?」の境地です。

言葉より絵のほうが抽象度は高いですから当然の帰結です。

近年発達した絵文字文化も今まで書いてきた内容を踏まえれば、何故これほどまでに世間に流通しているのかは明白だと思います。

共感と語彙は相反関係にあります。

物事を具体的に表現しようとすればするほど語彙が必要になりますが、語彙が増えるごとに物事は分別され、世界は分断されていきます。

逆に、言葉を減らせば減らすほど共感性が高まるのです。

全校集会の朝礼で校長先生が語る小難しい話を聞いている小学生と夏フェスの会場で無心にヘドバンしている観客、どちらが共感を感じていると思いますか?

そういうことです。

「愛は地球を救う」は具体性がなにもない文章ですが、言葉の持つ印象だけでそれなりに共感は集められます。

しかし、「具体的には?」と問い詰められるとそうはいかなくなります。

「ライブパフォーマンスで集金したお金で身体障害者のために車椅子を買います」となり「愛と地球はどこいったし」となります。

曖昧な言い回しは語彙力が低いのではなく共感を得るためにあえてそのように表現しているだけなのです。

ここまで書いて思い出したのですが反語彙力の言い回しを変えただけの話でしたね、これ。

閑話休題してもう一つ、言葉の隠喩性にはプログラミングにおける遅延評価のような働きがあります。

遅延評価とはコード記述上では動作が不確定でプログラム実行時になってはじめて動作が確定する挙動のことです。

小説には「行間を読む」行為があります。

文章としては記述されていなくても、描写された状況が別の何かを指し示す隠喩であることが多くあります。

例えば、討論したあとの描写で「彼は不敵な笑みを浮かべながら振り向き去っていった」と書いてあれば「こいつはまだなにか企んでいるぞ」や「こちら側にまだ気づいていない落ち度がある?」といった言葉に表していない別の情報を読者に与えることができます。

しかし、小説はいくらでも自由に紡ぐことができるので、実は彼が何も企んでいなくても、こちら側に落ち度が無くても「不敵な笑み」になんのメタファーとしてのメッセージが仕込まれていなくても、それはそれでありなのです。

伏線を大量に仕込んでも、風呂敷を盛大に広げても、それらがすべて回収されるケースのほうが少ないでしょう。

こういった言葉のレトリックもメタ認知保険として機能します。

あるときは「そんなこと一言も書いてませんよ」と言えるし、あるときは「行間を読めば私の伝えたいことは推測できますよね?」とも言えるのです。

先ほどの例だと「彼がなにか企んでいるなんて書いていませんよ?」と言えるし、「彼が企てを持っていることを不敵な笑みを浮かべさせることで表現している」とも言えるのです。

メタファーを使うことで解釈の遅延評価を行うことが可能になるのです。

言葉を表現したタイミングではなく、その言葉を各々が解釈した時に初めてその言葉の意味が確定するのです。

意味を確定させるのは読み手ですから、書き手は文章の解釈を保留できるのです。

さらに読み手の解釈が気に入らなければ書き手は自分の解釈を押し付けることもできるのです。

我々は無意識のうちにこういったメタ認知保険を駆使しながら言葉のやり取りを行っています。

言葉の意味に一意性があると思い込んでいると、ふとした瞬間に梯子を外されて痛い目にあってしまいます。

言葉がそのまま言葉通りになるのならとっくの昔に愛が地球を救っているはずです。

Tag: コミュニケーション