反語彙力
語彙力という言葉がある。
雑談力という言葉がある。
知っている言葉の量が多いほど、持っている知識が多いほど能力が高いらしい。
はたして本当にそうだろうか?
語彙の多さと知識の多さは力なのだろうか?
力といえば力かもしれない。
実際に多彩な言葉を使いこなすには、それ相応のインプットとトレーニングが必要だ。
でも、日常の多くの場面では力として機能するのではなく、ただの足枷にしかなっていない気がする。
言葉というのは定義が曖昧であればあるほど使いやすく、また日常会話でも実際によく使われる。
「すごい」「やばい」「かわいい」などの言葉は相手の話の相槌として凄まじく万能に使えるし、実際に使われている。
では、それらの言葉をたくさんの語彙を用いて詳細に表現したらどうなるだろうか?
「すごい」を「上腕二頭筋の肉付きが素晴らしい!」と具体的に言ったら、「いや、筋肉じゃなくて重いものを持ち上げて運んであげたことがすごいんだけどな」となって、具体的に褒めてしまったが故に相手が褒めて欲しかったこととの相違があらわになる可能性がある。
こうなった場合、語彙力はコミュニケーションに亀裂を生むネガティブなベクトルの力として働いてしまう。
「やばい」を「バッターとして本塁打をたくさん打つと同時に先発としても投げられるのは松井と松坂を足しても2で割らなくてもいいレベルの怪物だよ」と言って「え、松井と松坂って誰?(野球そのものの知識はない)」と言われたり、挙げ句その後、相手が興味のない野球の話を延々と続けて愛想を尽かされたり、
「かわいい」を「全体的にふっくらしてて豚みたいだね(この人は豚は可愛いものと思っている)」と具体的に言って「豚に例えるなんてひどい!(この人は豚をデブの象徴だと思っている)」と受け取られるかもしれない。
…そういったことが日常会話レベルだとわりかし多くあるので、語彙力ではなく反語彙力という概念を打ち出したい。
物事を細かく言語化してしまうほど、日常会話に大切な「共感」という潤滑油が失われていく。
歯車の歯が多くなればなるほど歯数の少ない歯車とは噛み合わなくなっていくように、必要以上の語彙による表現は逆にコミュニケーションを阻害・分断する原因になる。
だから、日常会話に大事なのは雑談力ではなく反語彙力なのだ。
むしろ、共感を生む反語彙力こそが雑談力とも言える。
ただし、同じコミュニケーションでも共感と意思疎通は別物なので注意。
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