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便利と感謝は反比例する

人類の歴史は利便性を追い求めてきた歴史でもあります。

利便性を求め続けた結果、今の便利な世の中が実現しています。

川に水を汲みに行かなくとも、蛇口をひねれば無限にきれいな水がでてきますし、地球の裏側にいる人とほぼ時差なしにコミュニケーションをとることが可能です。

家から出ずともあらゆる料理や商品を受け取ることができます。

しかし、便利になればなるほど減るものがあります。

それは人への感謝です。

便利であることはとても有難いことなのに、なぜか感謝の総量は減るのです。

どういうことでしょうか。

例えば、目の前に一杯の水が用意されることを想定してみましょう。

それが、近所の井戸なり川から人々がバケツリレーで運んできた水であれば、「たかだか一杯の水のために沢山の人が手間暇を惜しんで協力して運んできてくれるなんて、なんて有り難いんだ」という気持ちが湧いてくるでしょう。

かたや、蛇口をひねって注いだ一杯の水だったらどうでしょうか。

あまりにも日常なので、特に有り難みは感じないはずです。

人々がバケツリレーで運んできた水であろうと、水道管でオートマティックに流れてきている水であろうと、コップに注がれた一杯の水はどちらも同じ水であることに変わりはありません。

しかし、目に見えて人々の手間がかかっていれば、その労力に対して感謝の念が湧いてきます。

蛇口からひねって出てくる水だって、浄水場を作ったり、上水道を整備したり、建物の配管だったりで、なんだったらバケツリレーをするときよりも、人員の数も手間もかかっています。

蛇口から汲む水のほうが便利だし、(環境を整えるための)手間暇もかかっているのにも関わらず、バケツリレーと比較して、こちらはあまり感謝の念が湧いてきません。

それはなぜでしょうか?

人々は、自分の目の届かない労力に関して、あまり意識を持てないからです。

コンビニ弁当一つとっても、その材料一つ一つの生産から加工・ロジスティクスなど、全ての工程とそれに携わってきた人々を具体的に意識することができるでしょうか。

そもそも、どこで生産されてどこで加工されてどのように運ばれてきたのかも分からないですし、食べるときに、いちいちそんなことに思いを巡らすことはしません。

このように、利便性とは自分に直接携わる人間の労力を、可能な限り減らそうとする試みなのです。

だから、便利になればなるほど人間の労力を観測する機会が減って、感謝の機会も減るのです。

プロセス一つ一つごとに人と人が直接やり取りするのではなく、あらかじめ仕組みを作っておいて、その結果だけをポンッと提供できることが利便性の核です。

人間が計算すれば時間もかかるし間違いも犯しますが、機械がすれば早くて正確です。

できるだけ人間を排除してシステムに置き換えるほど利便性が上がります。

近年では、様々な作業が機械に置き換わって、AI技術の発達も相まって、サービスを提供する現場から、より人間の存在を滅尽しようとしています。

そうなってくると人と人が接する機会も減り、感謝を表明する機会も減ります。

ホールスタッフには感謝の念を伝えることはできますが、配膳ロボには伝わりません。

このように、便利になればなるほど感謝は減るのです。

人々が感謝の念を忘れたのではなく、ただ単に世の中が便利になっただけなのです。

また、利便性だけでなく、合理性も感謝と反比例する法則に当てはまります。

先程の一杯の水の例えを続けます。

飲食店でお冷をお代わりしたいときに、店員に頼んで注いでもらうのと、テーブルに置いてあるポットで自分で注ぐのとでは、どちらが合理的でしょうか?

自分で注げば、店員にわざわざお願いする必要もなく、店員が水を注ぐ手間も省けるので、こちらのほうが合理的であるといえます。

いわゆるセルフサービスは、こういった合理性でコストカットをして商品の料金を下げています。

しかし、セルフサービスで合理的に物事を処理するほど感謝の機会が減ります。

自分で水を入れれば店員に感謝する必要もないし、自販機でジュースを買うときに、自販機に「ありがとう」と言う人もいません。

無駄を省いて合理的になればなるほど、やはり感謝の機会は減るのです。

ビジネスの世界では、無駄を省き合理的に作業を行うことに価値があるとされています。

無駄を省き合理的に作業を行う最大のコツはコミュニケーションを可能な限りなくすことです。

人と人がやり取りするから無駄が発生するのです。

人に頼んで水を入れてもらうより自分で入れたほうが早いのと同じことです。

コミュニケーションをどうするか?以前に、コミュニケーションが発生している時点で非効率なのです。

IT化やシステム化の本質は、人間によるコミュニケーションを排除することなのです。

人間によるコミュニケーションを排除すれば当然、感謝の機会も減ります。

これを逆説的に捉えると、感謝の機会が多い仕事は非効率だということです。

病院、介護、保育、どれも感謝のやり取りが非常に多い仕事でしょう。

しかし、ヒューマンオペレーションが仕事の核であるが故に、業務としては非効率であり、特に今回のコロナ禍で現場はとても疲弊しています。

かたや、Amazonの置き配は、感謝のやり取りが一切発生しないですが、配達業者としては再配達をしなくてよくなった分、仕事の効率は上がりました。

ところで、私の大好きなドキュメント化は合理的で効率的な作業です。

なぜならば、ドキュメントは説明を自動化してくれる存在だからです。

ドキュメントがなければ、まず、自分の知りたい情報を持っている人を探す手間がかかります。

さらに、その情報を持っている人からヒアリングする手間がかかります。

ある一つの情報を得るために様々な人とコミュニケーションを取る必要がでてきます。

これは非効率です。

しかし、です。

周りの人が仕事ぶりを評価する際、こういったコミュニケーションは「仕事を頑張っている」とみなされます。

また、そういった非効率なコミュニケーションを取るたびに、相手に対して「ありがとうございます」という機会も増えます。

ドキュメントを参照して自分一人でつつがなく仕事をこなしても、仕事をやっている感も他人からの感謝も得られません。

仕事において効率とやりがいは両立しないのです。

工場のライン工は単調で面白みも感謝をされる機会も少ないですが、圧倒的に生産的であり人々の生活の礎を支えています。

つまらない仕事は合理化に成功した仕事なのです。

あなたの仕事が感謝に満ち溢れているのなら、その仕事が非効率であることを疑ったほうがよいでしょう。

そして、本当に効率と合理性を追求するのなら、その反動でやりがいや感謝の源泉であるコミュニケーションそのものが減ってしまうという自覚を強く持つ必要があります。

Tags: コミュニケーション, 仕事