客観主義
人の思想や行動は物語(ナラティブ)が影響を与えている。
自分が間接的に受け取った情報は真贋に関わらず全てナラティブだ。
なぜなら、それが「情報」だからだ。
それが本当だろうが嘘だろうが、自分が確認するまではあくまでも「情報」でしかない。
そして、自分が直接経験したものだけが現実である。
情報と現実の関係はシュレーディンガーの猫のようなものだ。
猫の生死が確定した情報だけが世間に流れるが、実際のところ、ほとんどの場合、それが正しいのかどうかは自分で直接確認することはできない。
例えば、死刑囚の死刑が執行されたニュースが流れたとしても、その人が本当に死んだかどうかは確認しようがない。
世の溢れる情報は真実とデマの玉石混交だが、人々は思いのほか、その真贋を確かめるために労力を費やすことはしないし、現実的にできない。
中国からの輸出が止まってトイレットペーパーの在庫がなくなるという情報が世間に溢れたとき、人々がとった行動は真贋の確認ではなく商品の買い占めだった。
デマはある種のナラティブである。
そして、ナラティブは現実の解釈にも影響を与える。
ことごとく店の商品棚からなくなったトイレットペーパーを目の当たりにし「あれはデマじゃなくてホントだったんだ!現に在庫がなくなってる!」となる。
しかし、この時点でも「中国からの輸出が止まった」わけではないし、実際にそうではなかった。(小売店の商品棚の在庫がなくなっただけ)
デマ(ナラティブ)が人を動かし、人が動いた結果、デマにさらに強い説得性を持たせるようになり、負の連鎖に陥ってしまった。
ストーリーが世界を滅ぼしたのである。
ナラティブは人々の行動の動機づけを行い、かつ、その行動の正当性までも担保する。
物語はみんなが思っているよりも圧倒的な影響力を持っている。
なんだったら人が何かをする動機の裏には常に何かしらのナラティブが影響している。
親や恋人にプレゼントをあげること一つとっても、他人から吹き込まれたナラティブの影響である。
世界の誰一人として他人にプレゼントを送る習慣のない世界で、自発的に自分から他人にモノをプレゼントするような人は(変人でない限り)いない。
プレゼントを送って喜ばそうと思うのも、プレゼントを貰って嬉しく思うのも、そういった物語を誰かが発明したからだ。
日本では、バレンタインは女性が男性にチョコレートを送る日とされている(近年は微妙に変わってきている)が、欧米では主に男性側から女性にプレゼントするのが一般的で、日本とは違った風習となっている。
民族ごとに抱えているナラティブが違い、ナラティブの違いがそのまま人々の行動に違いを生んでいる。(ちなみに、自分が子供の頃はホワイトデーなるナラティブは存在しなかったように思う)
世界に存在するあらゆる宗教もある種のナラティブなので、紀元前から現代に至るまで、人類史で圧倒的な影響力を誇ってきた。
元総理大臣が銃殺されたのも、何層にも積み上げられたナラティブが起こした悲劇といえる。
そうでなければ、実際に会ったこともなければ話したこともない人に対して、殺してしまえるほどの殺意を抱くようになるとは思えない。
韓国やロシアにヘイトを持っている人はそれなりにいると推測できるが、じゃあ、そのヘイトを感じている人は実際にその国から直接何かしらの嫌がらせをされたのだろうか?
ほとんどの人は書籍やテレビやネットからニュースという形で間接的に、国際的な不道徳を働いている情報を得て、その国に対して負の感情を抱くようになる。
そもそもロシアがウクライナに侵攻していると知らなければ、ロシアに対してヘイトを持つこともない。
それが本当であれ嘘であれ、間接的な情報だけでも、ある対象に対して憎悪を植え付けることができる。
そしていろんな偶然が重なって、憎悪の許容値を超えた人が、一線を越えた行動を起こしてしまうのである。
このように、人々が抱く感情や行動の多くが外界から植え付けられたナラティブの影響であったりする。
過去にした個性がない話もこの話に通じる。
人生で触れてきたナラティブが自分を形作ってきたのであって、自分の意志で自分が出来上がったわけではない。
人々の考えと行動の大部分はナラティブで構成されており、それを共同幻想として利用して、うまく社会を回しているだけに過ぎない。
日本という概念も、その実態は存在しない(日本が日本と認識できるのは現代人だけ)のに、みんなの中には絶対的に存在している。
それは今までの歴史で人類がナラティブを永遠と紡いできた結果そうなっているだけに過ぎない。
あなたが1万年前に生まれていたり、別の銀河の別の惑星に生まれていれば、日本という概念は存在しない。
著名人のスキャンダルから国の概念にいたるまで、人々の生活にはナラティブが深く跋扈している。
じゃあ、こんなにナラティブが我々に影響を与えているのであれば、その影響を受けないようにすることはできないのだろうか?
影響を無くすことはできなくても、それが良いことか悪いことかは横に置いといて、可能な限り減らすことは可能である。
情報はすべてナラティブなんだから、それを逆手に取ればいい。
世に溢れる情報を意識的に客観的なナラティブ(フィクション)として処理をすれば、なにか特定の考えやモノやヒトにはあまり囚われない。
コロナだってまだ自分が罹って苦しんでいないなら、自分の中ではただのナラティブの一つとしてやり過ごせる。
コロナ禍もコロナウイルスそのものの影響より、社会がウイルスに対応しようとした結果発生してしまった副作用による影響のほうが大きい。
これも、1万年前と言わずとも100年前に新型コロナウイルスが発生していても何も問題が起きないどころか認知すらされなかっただろう。(後期高齢者になる前に、ほとんどの人は寿命で死んでたので)
自分に直接関係していないことは、それが現実であったとしても、自分とはほぼ無関係で、そのことについて自分がどーのこーのする必要性は本来ない。
今この瞬間も世界のどこかでは目を覆いたくなるよう悲惨な事件が起きているであろうが、それをニュースで知らされようが知るまいが、自分の生活に変わりはないし、ほとんどの場合、それを知ったところで問題を解決することもできない。
何も知らなければ、自分の日常生活が平和である限り、世界も平和なのである。
逆に四六時中、世界中で起きるあらゆる惨事を見聞きしていれば、世界は常に世紀末である。
ということは、ラジオもテレビもインターネットもなければ、世界で起きていることを知る術がないので、自分と違う場所にいる人々のことを思って、いちいち悲しんだり腹を立てる必要もなくなる。
それと同じように、世に溢れる情報を客観的なナラティブとして処理すると、現実であったとしても自分の生活とは関係のないこととして感情を浪費することがなくなる。
でもそれは人としてひどいんじゃ?と思うかもしれない。
しかし、あなただって多かれ少なかれ、そういった冷酷な対処をしてしまう可能性があるはずだ。
もし自分が「20万光年先で地球と同じように人類が栄えている惑星にいる、とある人から念を受け取った。 その人曰く、その星は核汚染でボロボロになり日々ジェノサイドが繰り広げられている。念を介して実際の映像も見た。とても悲惨な状態で、それ以来ずっとどうにか助けられないかどうかを考えている」と言い、仮にそれが事実であったとしよう。
でもほとんどの人はそれを聞いて「駄目だこいつ…早く何とかしないと…」と思い、精神病院に行くことを勧めるはずだ。
でも事実であるなら、ウクライナや新疆ウイグルで不遇の人がいることを聞いた後で「そんなことどうでもいいから、自分のことを心配しろよ」と言ってしまうのと同じことだ。
もう少し分かりやすい例えにしよう。
あなたがアマゾンの奥地の未接触部族の人だとしよう。
当然、人生の生活圏は周囲の森の中だけで完結するし、外の世界がどうなっているのか知りようもないし、気にする必要もない。
そこに、どっかの先進国から迷い込んできた人に「ロシアがウクライナにひどいことをしている、世界平和のために協力してほしい」と言われても、「ロシア?ウクライナ?なにそれ、おいしいの?」となるはずだ。
それが事実であれ自分から距離のある物事は本来気にする必要がない。
しかし、メディアが発達しすぎてしまったせいで、一生行くことのない地域、一生会うことのない人について一喜一憂しなければならなくなってしまった。
ここは一旦、他銀河の知的生命体や未接触部族になったつもりになって、世に溢れる情報を客観的なナラティブとして処理してみよう。
世間を放置して、自分自身の現状だけに目を向けることも、案外大切なことだ。
ほとんどの人にとっては、アフリカの貧困問題や地球の気候変動を気にするより、自身の弛んだ肉体をどうにかするほうが、自分に対しても世界に対しても有益だ。
外の情報を遮断して自分自身に意識を向けるって、それってマインドフルネスでは?と思い始めてきたところで今回は終わり。
Tag: 哲学