< ランニングライト | ファスト教養とコンテキスト消費社会 >
文章量:約2500字

言語化は思考のコンパイル

なんとなく頭の中にある思いや考えを言葉として相手に伝えることは、みんなが思っているよりもめんどくさいし難しい。

なにか本を読んだり、誰かしらからためになるお話を聞いても、ほとんどの人のアウトプットは「勉強になった」「新しい気づきを得た」「面白かった」「良かった」ぐらいで、具体的な中身がない。(noteなどで内容をまとめられるのはごく一部の人だけ)

なぜそうなるかというと、当人の語彙力が低い可能性もあるが、自分の頭の中にあるふわっとした思考を具体的な文章に落とし込む難易度が高いからだ。

だからこそ、本を読んだりした時に、自分がやんわり思っていたことが言語化されているのを目の当たりにし「そういうことか!」と膝を打ってしまう。

逆説的にいうと、普段自分の脳内で存在していると思っている思考は、実は言語化されていない。

もしくは、言語化されていても抽象度がとても高い。

普段から、自分の頭の中をこねくり回して文章を絞り出しているから分かるが、たくさん文章を書いてきた自分からしても思考を文章に落とし込むのは難しい。

現に、今書いてるこの文章が全然書き進められない。

自分の頭の中に表現したい何かしらの思いは明白にあるのに、それをすっと文章に落とし込めない。

「わかったつもり」という表現があるが、これは、読んだり聞いたりしたときに「分かった気分」にはなるが、その内容をあらためて自分で説明したり実践したりはできない状態のことだ。

「わかったつもり」は自分の頭の中でふんわり思っていたことが「客観的に」言語化されただけに過ぎない。

客観的に言語化されていることと、主観的に言語化することは全く違う。

例えば、神絵師の描いた可愛い絵があって、それを参考にしたとて、自分もその絵と同じクオリティーの絵が描けるわけじゃない。

客観的に表現されているものがあるからといって、それだけで自分がそれと同じように表現できるようにはならない。

億万長者の自叙伝は無数に存在するが、それを読んだだけで自分も億万長者になれるわけじゃない。

そして、自分からアウトプットをしなければ「わかったつもり」を認識することもできない。

勉強して「完全に理解した」けど、いざ実際にやってみると「なにもわからない」となる現象がそれだ。

ダイエットの方法論も、実際に自分で実践して検証するまでは、それが正しいのかどうかは分からない。

アウトプットしてはじめて客観的な評価を得ることができる。

言語化すれば、その意味が明白になるし、実践をすればその成果が現れる。

そこではじめて、自分の思考が現実に反映される。

現実に反映されれば自分の頭の中に思い描いていたものとの差分が明白になる。

思っている分にはいい感じだったものが、言語化すると矛盾点が顕になったり、実践してみたものの、思いのほか成果が得られなかったりするかもしれない。

その時点で「わかったつもり」だったことが分かる。

言語化の習慣があると言語化した時に「なにか思ってた感じと違う」「これなんか間違ってるわ」「自分の言いたいことはこれじゃない」みたいに自分の間違いや勘違い、矛盾などに気づく。

気づくので、それを修正して正していくことができる。

よって、言語化をすればするほど、思ってることと発する言葉の乖離が減り、思っていることと実際の行動の乖離も減る。

言行が一致し、明行足に近づける。

逆に言語化をしなければ、思っていることと発する言葉が乖離していき、思っていることと実際の行動が乖離していく。

この点でもドキュメントおじさんは正確な仕事を遂行するために大事だとが分かる。

言語化をサボるから、みんなの頭の中と現実が乖離していきプロジェクトが炎上してしまう。

言語化をサボるから、運命の恋に落ちたカップルであろうと、時が経つにつれてどんどんと思いと現実が乖離していき、最終的にいがみあってしまう。

ところで、この言語化のプロセスはプログラミングにおけるコンパイルとよく似ている。

プログラミング言語は、最近でこそインタプリタ言語が主流だが、Perlが出る前ぐらいまでは、だいたいのプログラミング言語はコンパイル言語だった。(最近のJS界隈もほとんどコンパイル前提になっているが……)

コンパイル言語はソースコードをコンパイルして実行ファイルにしないとプログラムを動かすことができない。

ソースコードを書き上げても、コンパイラ(とリンカ)に通すと10行ぐらいの処理なのにそれ以上の量のエラーメッセージがでたりした。

それはさておき、ソースコードをいくら書こうとも、コンパイルを通して実行ファイルに変換できなければ、それは何も生産していないことと同義になる。

10万行のコンパイルできないソースコードは人間からみても機械からみてもゴミだが、10行のコンパイル可能なソースコードは、機械を動かすことができるし、人の目にも優しい。

さきほどの思考の言語化の話をコンパイルの話に落とし込んでみよう。

頭の中にある思考はソースコードにあたる。

そして、コンパイルを通して動くプログラムになるのと同じく、自分で言語化してみて、はじめてそれが相手に伝わる表現となる。

コンパイルと言語化は、その行為をもってしてはじめてソース(思考)に価値を与える。

ちなみに、コンパイルが通ったからといって、それがバグのないプログラムではないのと同じく、言語化できたとしても、それが正しいのかどうかは分からない。

しかし、プログラムが動いているからこそバグが顕現するのと同じく、言語化されたからこそ、その可否が言及できるようになる。

「5から3を引いたら残りは89」のようにでたらめな内容も言葉として表現できるし、それと同時に間違いを指摘することもできる。

ここまであからさまな事はなくても、実際に言葉として表現することで、矛盾に気づいたり、はたまた、思考が確たるものへと昇華するかもしれない。

「わかったつもり」から「わかった」に至るまでには、思考(ソースコード)の言語化(コンパイル)とデバッグが必要となる。

言語化をあまりしなかったり、下手だったりする人の「分かってる」「完全に理解した」には気をつけないといけない。

彼らが持っているのはまだ動かしたことのないソースコードなのだから。

Tag: 哲学