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物乞いと托鉢

皆さんは托鉢(たくはつ)という言葉をご存知でしょうか?

托鉢とは仏教における修行の一つで、出家者(修行僧)が在家(信者)から生活に必要な最低限の食糧などを乞い、信者に功徳を積ませる行為のことです。

かのお釈迦様も日常的に行っていました。

新宿駅の西口地下でよく見かけるお坊さんが行っているのがそれです。(偽物もいるらしいです)

また、そういった出家し修行を行うお坊さんを難しい言い方で比丘(びく)・比丘尼(びくに)と言います。

そして、托鉢とは別に乞食(こじき)という言葉もあります。

こちらは皆さんご存知だと思います。

乞食と聞くとホームレスやルンペンが道ゆく人たちに物乞いをしているイメージを抱くと思います。

そのイメージから、乞食に対してはかなりマイナスの印象を持っているのではないでしょうか。

乞食も托鉢も語源は同じらしく、どちらも表面上の行為に違いがないように見えます。

ですが、ただ単に物乞いをすることと托鉢は180度違った行為なのです。

何が違うのでしょうか?

物乞いの目的は相手の所有物の奪取ですが、托鉢の目的は相手を救済することなのです。

相手から施しを貰っておきながら何が救済じゃ、救済されとるのはお前やんけ、と思うことでしょう。

物乞いはただ物を乞うているだけなので、乞う対象は無分別です(厳密にはある程度「コイツだったらイケそう」みたいな判断はしていると思いますが)。

しかし、物乞いと違って托鉢は互いに同じ宗教観を所有しているという前提があります。

そもそも托鉢をしている時は自分から相手に何かを求めることはないですし、自分から乞いに行く時も相手は在家です。

施す方は施すことにより功徳を積めるし、リクエストをすれば比丘から説法を聴くこともできます。

比丘から在家に対する布教や説法の存在を前提とすれば、乞食と托鉢の違いは学生と教授で例える事ができます。

乞食は知識を求める学生のようなもので、生活(将来)のために知識(物乞い)を必要としています。

托鉢は教授に似ており、知識を共有すること(説法)で学生からの尊敬や支援(学費)を受けます。

このように托鉢は、在家側は在家側で功徳が積めるし、比丘(出家側)も必要最低限で生活を営むことができ、厭離(おんり/えんり)の実践が捗り、互いにWinWinな関係を築くことができます。

乞食はただの独りよがりな依存ですが、托鉢は共生を前提とした相互依存の関係なのです。

そんな托鉢ですが、実は同じような関係性を現代社会でもしばしば観測することができます。

その最たるものは推し活です。

ファンが自分の推しのグッズを揃えたり、スパチャで投げ銭する様は、まさに比丘の鉢に布施を与える信者と被ります。

推しはファンに支えられるし、ファンも推しを支えることで精神的に満たされます。

推しは「いつも応援ありがと」と言って多少のファンサはするものの、ほとんどは自分の仕事(クリエイティブ)に打ち込んでいるだけです。

推し活を行うファン個別に対して、何かをすることはほとんどありません。

それでも、ファン側は熱心に自発的に貢いでおり、傍から見ればただ喜捨(きしゃ)しているだけに映ります。

これはグッズやスパチャという施しを通して、徳の代わりに喜びを得ているのです。

野球やサッカー(これもある種の推し活)で選手の名前が入ったタオルを買い求め球場で掲げるのも、神(選手やチーム)との一体感を感じて気分を高揚する事ができるからです。

推し活は、推し毎に宗派と信仰が存在する、いわばマイクロ宗教的なものだと自分は捉えています。

托鉢も推し活も信仰対象が違うだけで、同じ宗教観上にいる者同士の相互依存という関係性においては同じだと思うのです。

そして、比丘や推しは存在しなくても生きていけますが、施した食料やお金は生きていくためには絶対に必要なものです。

その必須なものを人類は長い歴史の中でずっと宗教に捧げ続けています。

それだけ人類と宗教は切ってもきれない関係にあるのです。

全てのエンターテイメントは実は宗教のシノニムに過ぎないのかもしれません。

その場合、エンターテイメントを提供する側は托鉢を受ける側です。

もちろんエンタメ側は乞食のように一方的に金銭を巻き上げたりはしません。

同じ宗教観の人を捉えて、説法の代わりに人々に「人生の楽しみ」を布教しているのです。

そして我々現代人は世に溢れる様々なエンタメに惜しみなく賞賛と賽銭を投じています。

水道やガス、電気、道路、ロジスティクスなどのインフラ、日々の食料、国家運営など実際の人間の生活を支えているのはこちらの方なのに、人々がより感謝をしたり大事だと思ったり、お金を積極的に投じるのはエンタメ側です。

推しを尊いと思うことはあれど、蛇口から出てくる水に対して、コンビニにいつもの商品が並んでいる事実に対して、尊いと思うことはほとんどありません。

施すより施される方が何故か価値が高いし偉いのです。

こう考えていくと、実は托鉢がエンタメの礎を担っていたと言っても過言ではない気がします。

お釈迦様の時代にはエンタメなどは存在しなかったはずです。

その時代に自分の生活を支えているわけでもない比丘や比丘尼に施しを与えていた事実は、比丘や比丘尼が凡夫(ぼんぷ)の精神的な充足感を満たす、エンタメの始祖として存在していたからではないでしょうか。

そして、托鉢が成立していたのはお金の話と同じで、そこに信用があるから貢がれるし、その事実に価値があったからなのです。

Tag: 社会