お金は努力や能力じゃなく信用に支払われる
昔、技術力はお金に換算できるのか書きましたが、今回はその続き的なサムシングです。
世間一般的に給料やお賃金の話になると、まず話題になるのが、労働者のスペックの良し悪しと、次に、頑張りの量に応じた報酬が支払われるべき論だと思います。
前者はスキルや資格、キャリアアップを通じて自己の価値を高めてお給料も上げていきましょう、といった話です。
後者はエッセンシャルワーカーだとか、労働時間が長いとか、世の中になくてはならない仕事だからとかで「もっと賃上げせえや」といった話です。
頑張りは報われるべきという幻想をほとんどの人が漠然と抱いています。
自分が8時間働いて得た賃金を、別の人が1時間だけ働いて得てしまったと知れば、あなたは不平感を持つでしょう。
気持ち的には別の人より8倍多く働いたのですから、それに見合った賃金が支払われるべきと思うのは当然でしょう。
しかし、です。
自分自身は頑張りを認めてほしいわけですが、ではあなたは普段、他人の頑張りを金銭的に認めていますか?
気持ちや言葉上ではありません。
金銭的に、です。
もしあなたが金銭的に他人の頑張りを認めているならAmazonの送料無料などは言語道断なはずです。
物流は人もエネルギーもインフラも多大なコストをかけています。
それを無料なんかにしてしまった日には物流に関わる全ての人の労力に報いることができません。
しかし、大半の人はそんなことに一瞥もせず、送料が無料になるボーダーラインを常に意識しながら商品をポチっているはずです。
もう一つ例え話をしましょう。
もしスーパーに普通のグリコのポッキーとよく知らないメーカーの手作りポッキーがあったとします。
グリコのポッキーは150円で手作りポッキーが450円です。
味も内容量も同じとしましょう。
工場で量産されているか手作りかの違いです。
手作りの方は手作りなので人件費が多くかかっているので高いです。
あなたならどちらのポッキーを定番買いしますか?
私はもちろん普通のポッキーを買います。
ほとんどの人も普通のポッキーを買うと思います。
ここでよく知らないメーカーで働いている人が「長時間がっつり働いているのに売上が悪いらしくて全然給料が出ない……」と愚痴ったとしましょう。
普通のポッキーを買っている人からすれば「そんな売れないもん作って儲かるわけないんやから当然ちゃうの?」と思うでしょう。
間違っても「彼(女)らの労力に報いるためにこれからは450円のポッキーを買ってあげよう」とはならないはずです。
はたまた、大繁盛している美味しくて人気のあるラーメン屋の横に不味くて閑古鳥が鳴いているラーメン屋があったとしましょう。
人気ラーメン店は週5の8時間営業で、不味いラーメン屋は365日24時間営業です。
労働時間的に頑張ってるのは不味いラーメン屋のほうです。
この現状を見てあなたは「不味いラーメン屋のほうが頑張っているから不味いラーメン屋のほうが繁盛すべき。世の中間違ってる」と思いますか?
思わないですし、自分でも食べるなら、美味しくて人気のあるラーメン屋のほうです。
このように、感情と意見上では「労力は報酬で報われるべき」ですが、我々が実際にとる行動はそうではありません。
では一体我々は何に対してお金を払っているのでしょうか?
それは労力ではなく「信用」なのです。
仮に私が一念発起して何故か吉野家の真横に牛丼屋をオープンさせたとしましょう。
道行く人々が入るお店はどちらでしょうか?
かたや日本で一番有名な牛丼ブランド、もう片方は全然聞いたこともない個人店。
入りやすいのは圧倒的に吉野家ですし、吉野家に入れば吉野家の牛丼の味は保証されています。
かたや、私のお店の方は未知数で、簡単に足を踏み入れにくいでしょう。
10人中1人ぐらい好奇心旺盛な人がいるぐらいで、ほとんどの人は吉野家で牛丼を食べる選択をすると思います。
仮に吉野家と自分の店の牛丼を比較して、味と値段が全く同じだったとしても、選ばれるのは吉野家の方です。
よほどの奇跡が起きない限り、自分の牛丼屋を長く存続させることはできないでしょう。
ここで考えてみてください。
吉野家と自分の牛丼の違いは何なんでしょうか?
それは「吉野家の牛丼」という圧倒的な「信用」です。
私のお店の牛丼にはなんの信用もありません。
だから客から選ばれないのです。
私は在宅ワークで自宅の近所でいろんなお店のランチを食べているのですが、大手チェーン店はいつ行っても混雑している一方、個人店はわりといつ行っても空いています。
昼食のゴールデンタイム(12〜13時)を過ぎていても、ガストやロイホのファミレスは結構な割合で順番待ちの人がいますが、駅から少し離れた小さい定食屋は大体すぐ入れます。
日常において、人が何かを選択する場合、未知数なものよりも既知のものを選びがちです。
なにげない日常生活でいちいち思考コストをかけたくないのです。
既知であり、さらに継続性が担保されていれば信用の価値は高くなります。
マクドナルドのビッグマックは夏だろうが冬だろうが日本のどこであろうが、常に同じクオリティーのハンバーガーがでてきます。
なんなら海外のどこで頼んでも同じものがでてきます。(ちなみに、自分は海外に行った時に、訪れた国ごとのマクドナルドでビッグマックを頼んでいます。中国では食べ損ねましたが……)
そういった長い年月とワールドワイドで品質を担保している「信用」があるからこそ、いつでも気軽にマクドナルドを利用しようと思えるのです。
クレカだって銀行だって返済で信用を積み重ねれば限度額も高くしてもらえます。
さらに信用がいかに大事かの例えをしましょう。
500円で確実に配送してくれるサービスと100円で済むけど配送される保証がないサービスがあったとします。
仮にAmazonでどちらかの配送サービスを選べるとして、配送される保証がない方を選ぶ人はいるのでしょうか。
安い買い物で保証がないと言ってもほぼほぼ届くのであれば利用する人もいるかも知れませんが、ギフトや高価な商品ではまず選ばないでしょう。
これが信用の価値です。
人が期待しているものがまずあり、その期待に応えることが信用であり価値となるのです。
人の期待がなければそもそも信用は生まれませんし、どれだけ努力してもその期待に応えられなければ信用を得ることはできません。
ここまでで、タイトルにある「努力や能力」の努力側のお話をしてきたわけですが、次に能力側のお話をします。
実は能力とお金には因果関係もなければ相関関係もありません。
技術力はお金に換算できるのかで書いた通り、能力とお金が結びつくのは利益が出た場合のみです。
結果がないのであればいくら能力があったとしても無です。
ゴッホは今でこそ有名な画家ですが、生前において彼の絵はほとんど評価されなかったそうです。
生前も生後も絵画自体は同じわけですから、その価値も同じはずです。
しかし、生前はほとんど値段はつかず、現在では超高額で取引されています。
現在において何故価値があるのかというと、画家としての評価が確立されているからです。
すなわち、ゴッホという名は画家としての信用があるわけです。
先程の牛丼の例のように、自分が頑張って絵を練習して、ゴッホと同じような絵を描けるようになったとしても、その絵にはゴッホの絵と同じ価値がつかないのは、誰でも理解できるところだと思います。
こちらも、さらにもう一つ例え話をしましょう。
あなたが大企業で年収800万を稼いでいる人だとします。
この稼いだ年収はあなたの能力のおかげなのでしょうか?
もしあなたが勉学に励んで超難関校の大学出身者だったりしたら首肯するかもしれません。
では、そこから資本金が1000万ぐらいしかない社員数人のベンチャー企業に転職したとしましょう。
提示された年収も350万です。
もし、能力がそのままお金になるのならば、そのベンチャー企業でもあなたは年収800万を稼ぐことができるはずです。
しかし、ほとんどの場合、そうはならないでしょう。
仮に、そのベンチャー企業が爆発的に成長してあなたの給料も800万を超えることもあるかもしれません。
しかし、それはあなたではなく経営者が優秀だったに過ぎません。
もし、それがあなたの力だとしたら、あなたは雇われ人ではなく経営をやるべきです。
大企業で年収800万が貰えていたのは、あなたの能力ではなく「すでに存在する大企業という仕組み」のおかげであり、ベンチャー企業で年収800万が貰えないのはその仕組みがないからに過ぎないのです。
そして、そもそも年収800万の大企業に雇われたのは、あなたの「超難関校の大学出身者」だったり今までの職務経歴だったりの「こいつならうちの仕事を任せられそうだ」という「信用」なのです。
会社はあなたの能力ではなく信用にお金を払っているのです。
そもそも実際に仕事をやって成果を出してもらうまでは、その人の実力など分かりようがありません。
会社から見た場合の大卒の価値とは「何を学んできたか?」ではなく「大学を卒業させられる財力がある、育ちの良い家庭出身という信用」なのです。
だから大学全入時代になった今、大卒そのものの価値はほとんど毀損しています。
そして、払う側にお金がないのであれば、仮にあなたにいくら能力があったとしても、払う側が払える金額までしか貰うことはできません。
かくいう私も、自分の能力で飯が食えているなんて1ミリも思っていません。
私は努力は嫌いですし、さして能力があるわけでもありません。
それでもお賃金を捻出できているのは、自分を雇用してくれている人がたまたま自分を「信用」してくれているだけに過ぎないのです。
今までコツコツ積み上げてきた経験と評価が「信用」を生み、そこからの信頼で私はまだ生きながらえています。