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文章量:約2900字

思考は反応に対する叛逆

「人間は考える葦である」という有名な言葉がありますが、私はどちらかというと「人間は反応する葦である」と表現してくれたほうがしっくりきます。

人間の行動は思考(このエントリで使う思考はここでいう「考」の方)の結果だと考えられがちですが、意外とそうでもありません。

人は一見、思考の末、合理的な行動を取っているように思いがちですが、冷静に観測してみると、頭の中にある知識や思考を元にしているよりかは、その時々の反応で動いていることが多々見受けられます。

そういった人間の行動を科学的に解き明かしているのが行動経済学です。

行動経済学で有名な本だと『予想どおりに不合理』がありますが、私としては『ヘンテコノミクス』のほうが読みやすく面白いのでおすすめです。

行動経済学とは具体的になんぞや?となっている方に一例を出すと、アンダーマイニング効果というものがあります。

これは報酬の付与によって内発的な動機を弱めてしまう現象です。

本人がやりたくてやっている→報酬を与える→報酬をもらうためにやるようになる→報酬をやめる→報酬がなくなったのでやる気が無くなる

といった具合に、動機をやる気から報酬にすり替えることにより、最初にあったやる気が消失してしまうのです。

前掲書には具体的な内容が分かりやすく漫画で描かれているので、興味がある方は是非、本を読んでみてください。

で、行動経済学は一旦置いておいて、このエントリでは人の一般的な動作は、知識や情報をもとに考えて行われるのではなく、その場その場の反応であることを解き明かしていきます。

例えばです。

あなたは横断歩道の信号の前で赤から青に変わるのを待っています。

そこで隣の人が動き出したのにつられて歩を進めようとしたら、信号がまだ赤だったという経験はありませんか?

知識として、青は「渡れ」で赤が「止まれ」だということは誰でも知っていますし、だから信号の色が変わるのを待っていたわけです。

しかし、それにも関わらず隣の人の動きに反応してあなたの体も実際に動いてしまいました。

情報や知識があるからといって、瞬間的な動きがそれに基づいているわけではないということです。

さらに信号の例えを続けましょう。

急に交通ルールが変更になって、赤が「渡れ」で青が「止まれ」に変わったとしましょう。

そうなると、街中の至る所で交通事故が発生することを想像するのは容易いと思います。

いくら知識として、青で「止まれ」と刷り込もうとしても、体は反応として青で足を踏み出そうとしてしまいます。

赤で止まって青で渡っていた今までの行動は、ルールを超えてもはや慣習となっており、ルールが変わったからといって、その瞬間からいきなり社会全体に浸透などしないのです。

人々が思考で行動しているなら、ルールが変われば、その変わったルールに則って行動すればいいだけですから、別に社会に混乱など起きません。

しかし、慣習となっている行動を変えるにはそれなりの意志の強さと気力が必要です。

人一人ならともかく、すべての人間に完全に浸透させるとなると、慣れるまでにある程度の時間が必要でしょう。

憲法も法律も条例も実際に存在はするし、その存在も我々は知っています。

しかし、それは所詮言葉でしかありません。

言葉そのものに実体はなく、その言葉をみんなで信じ込むことによって初めて言葉に価値が生まれるのです。(これがいわゆる「言語ゲーム」)

例えば、日本という言葉もみんなの中で共同幻想として築かれているからこそ、確固たる概念として存在しているのです。

自分一人が「ヒッポロ系ニャポーン」を「日本」のことだと確固と信じていても「ヒッポロ系ニャポーン」にはなんの言葉の力もありません。

「ヒッポロ系ニャポーン」が通じるのは自分だけで他人には伝わらず、他人に伝わらない言葉に意味はありません。

少し話が横にそれはじめましたが、要するに言葉だけで人間の動きを完全に制御しきることは不可能なのです。

情報や知識などの確固たる行動指針が存在していても、普段の人々の動作は慣習に落とし込まれ、結果、反応として人の体を動かしているのです。

冷静に考えてみると、日常の動作の一挙手一投足をいちいち考えていたのでは、とても真っ当な生活を送れるとは思えません。

歩き出す時に「右足から出すか?左足から出すか?」や「どちらの手でスマホを持とうか?」などをいちいち考えていたらキリがありません。

よって、日常動作の大半は思考からではなく反応として繰り出されているのです。

いわゆるルーティーンです。

では逆に、反応ではなく思考で体を動かすケースにはどういったものがあるのでしょうか。

それは、意識的な選択を行う時です。

既存の情報や知識に則って動くのは反応です。

目覚ましで決まった時間に起床し、電車に乗って通勤する。

これは反応による動作です。

それらの行動に思考は関与していないからです。

そこで意識的な選択を持ち込んでみましょう。

目覚ましで目を覚ましたものの、まだ眠い。

そうだ!もっと寝よう!

そう、これが選択です。

眠たいんだからもっと寝ようとするのはそれこそ反応じゃねぇか!と言いたい気持ちはわかります。

じゃあ、あなたは出勤をすっぽかして無断欠勤ができますか?

真っ当な社会人であれば眠気に抗い、目を覚まし、朝の支度を始めるはずです。

そこで社会人としてのステータスを捨ててでも二度寝をかますのはよくないことですが、これは慣習に抗った意識的な選択です。

なぜなら、寝坊をした場合、未来において相当な不利益が発生することは容易に想像できますが、それを勘案した上で二度寝の快楽を選択したからです。

ちなみに、何も考えずにただただ二度寝をしてしまうのはただのナマケモノであって、それは反応です。

普段の慣習を疑い、それに抗って、新たな選択肢を想像して実践するのが思考です。

選択肢のない行動はすべて反応なのです。

人間は楽をしたい生き物ですから、可能な限り思考するのではなく慣習や反応でやり過ごしたいのです。

「考える力」とか「自分で考えるのが大事」と気軽によく言いますが、考えることはみんなが思っているよりめんどくさいのです。

そこまでの思考に至ってない時点で「自分で考えるのが大事」と言っている人が実はあまり考えていないのがよくわかります。

自分で晩御飯の献立を考えるより「今日なに食べたい?」と相手の反応で決めてしまいたいし、マスクの着脱も自分の判断ではなく、お上に一律に決めてほしいのです。

このようにみていくと、人間はやはり思考でなく反応の積み重ねで日常を送っているのです。

逆に反応で済ましておけばいいものを、いちいち考えるから苦しみが発生してしまうケースもあります。

食う寝るヤルだけで生きていればそんなに悩みが発生することもないですが、そこに「私はなんのために生まれたのか?」みたいな余計なことを考えるから精神を病むのです。

人々の動作が思考ではなく反応がデフォルトなのはそういった事情があるからでしょう。

そもそも人々が常に反応ではなく考えから動いていたのならば行動経済学など存在しようもないのです。

そして、行動経済学が成り立っている事実が、反応に対する反逆の難しさ、もとい、考えて実践することの難易度の高さを証明しているのです。

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