慣習法と成文法
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今年の6月、北中米W杯の熱狂の裏で、スポーツ配信サービスのDAZNが打ち出した「DAZN Soccer」のキャンペーンが大炎上したのを覚えているでしょうか。
「最初の3ヶ月は月額980円!」とデカデカとアピールしてW杯目当てのサッカーファンを誘い込みながら、その実態は「12ヶ月の年間契約(途中解約不可)」という条件を目立たないように記載していた、いわゆる典型的なダークパターンです。
大会期間だけ安く観てサクッと解約するつもりが、気づけば1年間の支払いに縛り付けられていたユーザーから怒りの声が殺到し、最終的には新規受付停止と返金対応にまで追い込まれました。
企業側の当初の算段としては「注意書きにはちゃんと書いてあるし、利用規約にも明記しているから法的には何ら問題ない」といったところだったのでしょう。
「法律に違反していなければ何をしてもいい」「規約の範囲内なのだから法的に問題ない」。
人の善意や先人が築き上げてきた慣習を無視し、ルールの穴を突いて利益を掠め取ろうとする人たちがたまに現れます。
そして彼らが炎上した際に口にするこの台詞を聞くたび、何とも言えない気持ちになるのは私だけではないはずです。
世間一般ではこういった態度を「モラルの欠如」だの「倫理観の崩壊」だのといった道徳的な言葉で批判します。
とはいえ、ほとんどの会社や社会人は程度の差こそあれ、無自覚に他人の気持ちよりも仕事の遂行を優先しているのではないでしょうか。
友人や親戚への保険の営業や、訪問販売の押し売り、ウォーターサーバーやネット回線の勧誘、カード会社からの保険加入の電話、家電量販店のスマホコーナーの過剰な人員配置などは、どちらかといえば邪魔です。
しかし、営業側からすれば契約を取るために必死になって仕事をしているだけなのです。
ダークパターンもその延長線上にあるだけで、やっている側はこちらが思っているほど悪意はないのかもしれません。
一昔前のソシャゲのガチャ規制の動きのように利益追求が過熱し社会問題化して初めて規制がかかるのです。
商売はそういったグレーゾーンのボーダーラインを攻め合う性質を孕んでいます。
ルールに「禁止」と書かれていなければ何をやってもいい、と境界線ギリギリを攻める姿勢は、「法律こそが社会を動かしている」という前提に立っています。
しかし、プログラミングのパラダイムを借りて言えば、法律は決してシステムの「ビジネスロジック」ではありません。
どちらかといえば、それは単なる例外処理に過ぎないのです。
プログラムに馴染みのない方のために簡単に説明しておくと、「ビジネスロジック」とは、そのシステムが本来達成したい主目的であり、日常的に触れる「正常系のルート」のことです。
例えば買い物サイトであれば、「商品をカートに入れる」「決済する」「在庫を減らして発送を手配する」という一連の当たり前の流れを指します。
これがなければシステム自体が存在意義を失ってしまう、いわばシステムの本体そのものです。
一方の「例外処理」とは、その正常な流れから外れた「異常事態」が起きたときのセーフティネットのことです。
「決済時にクレジットカードの限度額を超えていた」「在庫引当の瞬間に通信が途絶えた」といった予期せぬエラーが起きたとき、決済をキャンセルしたり、システムがクラッシュして画面が真っ白にならないように、「エラーメッセージを出して前の画面に戻す」といった後始末を行います。
例外処理とは、正常にシステムが動いている限りは、本来一度も実行されることのない裏方のコードなのです。
このメタファーを現実社会にマッピングしてみると、社会の解像度がぐっと上がります。
我々の社会における「ビジネスロジック」とは一体何でしょうか。
それは六法全書に並んでいる無味乾燥な条文などではなく、日々の暮らしの中で培われてきた暗黙の了解、道徳、コモンセンス、すなわち「慣習法」です。
出社して同僚に挨拶をし、コンビニで商品を受け取って代金を払い、駅のホームでは列に並んで電車を待つ。
あるいは、相手に迷惑をかけたら自らの非を認めて謝罪する。
これらは人間社会というシステムにおいて最もクリティカルなルールですが、いかなる法律にも「挨拶すべし」「謝罪すべし」などとは一行も書かれていません。
我々は「法律で定められているから」挨拶をしているわけではないのです。
というか、そもそも冷静に考えてみれば、我々は現行の法律の条文などほとんど知りません。
刑法や民法の条文を正確に暗唱できる人など専門家でも一握りですし、世の中に無数に存在する法律のすべてを把握することなど誰にとっても不可能です。
それにもかかわらず、法律の条文などろくに知らない人間同士が、日々街を行き交い、取引をし、ほとんどトラブルを起こさずに平和に共存できています。
なぜそんなことが可能なのかといえば、国家が定めた法律(人定法)が存在する以前に、社会には「自然法」とも呼ぶべき自生的な規律、すなわち慣習法が存在するからです。
「人を傷つけてはならない」「他人のものを奪ってはならない」といったことは、条文が刻まれたから生まれたルールではなく、人間が共生していくプロセスの中で自然と編み出されてきた、社会生活のための知恵です。
成文法とは、そうした自生的な規律が破られた際の境界線やペナルティを、後から人間が便宜的に文字化して制度に落とし込んだものに過ぎません。
つまり、成文法という人工的なルールブックがなくても、社会には最初から「法」の規律が満ちているのです。
自然界を見渡してみれば、これは人間社会に限った話ですらありません。
例えばアリの群れを観察してみると、何千何万匹というアリが見事な統率力で餌を運び、巣を築き、高度な社会生活を営んでいます。
当然ながら、アリの巣に議会や裁判所はありませんし、「第1条:食糧は巣に持ち帰るべし」などという成文法が壁に刻まれているわけでもありません。
文字も条文も持たない彼らですが、何らかの暗黙のプロトコルに従って、驚くほど自律的かつ規律正しく動いています。
人間社会のベースも、これと本質的には何も変わりません。
そう考えれば、社会を動かしている本体が法律などではないことは自明でしょう。
この巨大で暗黙のビジネスロジック(慣習法)こそが、日常を動かす真の原動力であり、言ってみれば「社会そのもの」なのです。
99.9%の日常は、警察や裁判所の出番など必要とせず、この慣習法という正常系ルートの上で、エラーもなく滑らかに実行されているわけです。
では、法律(成文法)の役割とは何か。
それこそがまさに「例外処理」です。
「列に割り込んで殴り合いになった」「代金を払わずに商品を奪って逃げた」「契約を結んだのに反故にされた」など、社会の本体である慣習法だけではどうしても処理しきれない致命的なエラーが発生したとき、初めて「法律」というcatchブロックに処理が移るわけです。
警察や裁判所、刑務所といった国家権力は、当事者間での問題解決が困難になった時のための、巨大なtry-catch機構に過ぎません。
そう考えると、冒頭の「法律に違反していなければ何をしてもいい」という理屈は、現実社会としてかなり無理があることが分かります。
例えばサッカーにおいて、相手選手が接触で倒れて起き上がれないのを見て、味方が攻撃のチャンスであるにもかかわらず、あえてボールをタッチラインの外に蹴り出すシーンをよく見かけます。
そして試合が再開されるとき、相手チームもスローインからそのボールを元のチームへ返してゲームを再開します。
この一連のやり取りは、サッカーの公式ルールブックのどこを探しても一行たりとも義務としては書かれていません。
ルール上は、倒れている相手を無視してそのままプレーを続けても(審判の笛が鳴るまでは)反則ではありませんし、ボールを返さずそのまま攻撃を仕掛けても得点として認められます。
しかし、もし「ルールブックに禁止と書いていないから」とそんなプレーをする選手がいれば、スタジアム中の観客から激しいブーイングを浴びるでしょう。
サッカーという競技は、成文化されたルールだけで成り立っているわけではありません。
選手同士のリスペクトやフェアプレーという「明文化されていない不文律(慣習法)」が、その土台を支えているのです。
審判の笛やイエローカードといったルールは、ゲームが荒れて選手同士の自律的なプレーが困難になったときに介入するセーフティネットに過ぎません。(サッカーそのものは審判が存在しなくてもプレーが可能であり、子ども同士が集まって遊ぶ場合は誰も審判なんてしません。)
「反則を取られていないのだから何をしてもいい」と居直る選手ばかりになれば、試合は壊れ、そもそもスポーツとして成立しなくなります。
白黒はっきりとルールですべてを縛ろうとする社会は、一見すると厳格で正しく見えますが、その実態は1プレーごとに試合を止め、VARで数分間チェックし続けるような、息苦しくて不健全なシステムでしかありません。
選手たちが相手への敬意と阿吽の呼吸でボールを繋ぎ、素晴らしい試合を創り上げるように、我々もまた、法律やルールという最後の砦に頼り切るのではなく、日々の良識や暗黙の信頼を洗練させていくことこそを目指すべきなのです。
……もっとも、昨今の「コンプライアンス」を見ていると、現実はまったく逆の方向へと突き進んでいます。
誰かがルールの穴を突くたびに、新たな制約や承認フローという名の例外処理が増設されていきます。
そうしてルールを固めすぎた結果、本来なら阿吽の呼吸で回っていたはずの日常が、過剰な手続きの摩擦によって身動きの取れない機能不全に陥っています。
「法に触れていなければ何をしてもいい」という傲慢と、「規約で縛らなければ何も信用できない」という猜疑心。
その両者に挟まれて息苦しくなっていく社会の中で、本当に退場させられているのは、ルールを破った者ではなく、我々の日常そのものなのかもしれません。