< 読後感 | 熱狂と平穏の間 >
文章量:約4500字

FACTFUL-LESS

少し前に書籍『ファクトフルネス』が流行っていましたが、その当時、読んでもいないのにその本の内容(厳密には本を読んだ人の感想)に対して否定的な感情を抱いていました。

そのことをふと思い出したので今回はその内容について考えます。

当時の評判や目次の内容から中身はおおよそ推測できるので、それをもとに思っていることを書きます。

ちなみに今もこの本は読んでいません。

実際の内容と比べると見当違いのことを書いてある可能性もあるので、そのへんはあしからず。

分断本能 - 「世界は分断されている」という思い込み

それは思い込みではなくて凡夫に学問を布教した結果起きた意図された洗脳です。

そもそも分断は科学的思考のベースです。

科学は基本的に物事を分割して定義するものです。

水は水素と酸素に、四角形は正方形と長方形と平行四辺形・ひし形・台形と分類が分かれるように。

学問は分類を細分化することにより物事を把握しやすくするためのアプローチなのです。

自分たちの利便のために散々分類(分断)を生み出しておきながら、それを思い込みと一蹴されるとマッチポンプ感を感じてしまいます。

アメリカや日本、大阪や東京といった地理的分断も現代人にしか解釈できません。

原始人や犬や猫からすればそんなものは存在しないし、認識もできません。

現生人類だけに許された共同幻想上の概念です。

しかし、現代社会の人間からすれば日本とアメリカを十把一絡げに扱うことは到底できないので、そこで分断が起きるのは仕方ないことだと思います。

これはもう文明のデメリットとして無条件に受け入れるしかないと思います。

ネガティブ本能 - 「世界がどんどん悪くなっている」という思い込み

これは「世界がどんどん悪くなっている」の定義をどうするかの問題です。

なにをもってして「悪い」とするのでしょうか?

その「悪い」と思ったことは本当に世界にとって「悪い」ことなんでしょうか?

最近の若者が軟弱になっているからダメなのでしょうか?

これはただの個人の主観で古代から言い続けれてきたことです。

しかし、現代に至るまでに文明も技術も信じられないぐらい発展しました。

昔からずっと「最近の若者はけしからん」のであればなぜここまで人類は発展してこれたのでしょうか?

現代特有そうな問題に目を向けてみましょう。

少子高齢化が悪いのでしょうか?

世界の人々の幸福度が低いのがダメなのでしょうか?

自然が破壊されて気候変動が起きているから悪くなっているのでしょうか?

世界人口が激減しても一人一人の幸福度が上がれば世界は良くなっているのでしょうか?

自然環境も元の緑あふれる地球が戻ってこれば世界人口が激減していても世界は良くなったと言えるのでしょうか?

極論すれば「世界」を基準にすれば人類を考慮に入れる必要もなく、人類が絶滅しても地球が自然あふれる多種多様な生態系を取り戻せば「世界が良くなった」と言ってしまってもいいのです。

しかし大多数の人は人類がいなくなったら「いいも悪いもクソもないだろ」となるでしょう。

良い悪いのダイコトミー(二元論)の存在自体が思い込みなのです。

あと、人間(生物)は生まれてから死ぬまでひたすら老化し続けるだけですから、主観的には「どんどん悪くなる」認識は現実としては正しいと思います。

直線本能 - 「世界の人口はひたすら増える」という思い込み

あらゆる先進国が少子化問題を抱え、発展途上国であった国々もどんどんと先進国化している現状、「世界の人口はひたすら増える」と思い込んでいる人のほうが少ない気がします。

1970〜90年ぐらいであれば思い込めたでしょうが2021年を迎えた現代では文明発展の岐路に立たされている感が強く単純な直線本能を描きにくいのではないでしょうか。

金融バブルだって過去に何回か弾けているので現在の金融市場の高騰もそのまま上がり続けると考えている人もあまりいない気がします。

そもそも「直線本能自体が存在するのか?」と考えてしまいましたが、ダニングクルーガー効果の成長曲線のような仮説が存在することから逆説的に考えると、人間は直線的に成長すると思い込んでいる前提があるんでしょう。

恐怖本能 - 「実は危険でないことを恐ろしい」と考えてしまう思い込み

リスクがある時点で「危険」なことには変わりありません。

車に乗ってて死ぬより飛行機に乗って死ぬ確率のほうが遥かに低い話は有名ですが、確率が0なわけではありません。

だから「飛行機は怖いから乗りたくない」という意見を否定する気にはなれません。

確率は低いものの実際に事故は起きていますし飛行中に墜落すれば搭乗している人はほぼ100%死にます。

運悪く雷に打たれて死ぬ人もいますし、ただ歩いているだけでコケて水たまりで溺死してしまう人もいます。

次の瞬間に隕石が落ちてきて当たって死ぬ確率も0ではありません。

生きている時点で我々は常に何かしらの死ぬリスクを抱えているので「危険でない」という概念自体が思い込みです。

過大視本能 - 「目の前の数字がいちばん重要」という思い込み

これはその通りだと思います。データアーティストを読んでください。

パターン化本能 「ひとつの例にすべてがあてはまる」という思い込み

これもその通りだと思います。イチブトゼンブを読んでください。

宿命本能 - 「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み

これを思い込みと言ってしまうと「予定説」を否定してしまうことになります。

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を否定するのでしょうか?

ヴェルナー・ゾンバルトの支持者なのでしょうか?

まぁ、そんなことはどうでもいいのですが「宿命」は社会秩序の形成のためにはある程度必要な概念だと考えます。

社長が従業員の雇用の維持を考えるのは宿命を感じている部分が大きく、パートナーを見つけ子を授かり育てる営みも宿命を感じられるからこそ、人はそのように生きようとします。

また、最近読んだマイケル・サンデルの『実力も運のうち』の内容を踏まえると、全てとは言わないまでもある程度は生まれと環境で決まってしまうのも事実であることが分かります。

単純化本能 - 「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み

これも科学的思考のデメリットの産物であるといえます。

細分化しパターン化し、そしてそこから法則や理論を見いだすのが科学です。

そこで見いだされた法則や理論は言うなれば物事の単純化です。

無知の知が存在する時点で科学は全てを解明しているわけではないのですが、とりあえず分かったことを「これはこういう理解とする」と定義するのが科学なのです。

科学はどこまでいっても「一つの切り口による理解」にすぎないし、日々生まれる新たな学説により過去の定義も頻繁に塗り替えられています。

例えば一昔前(今でも)だと、運動やスポーツによる疲労の蓄積を「乳酸がたまる」と表現していました。

しかし最新の学説だと乳酸が疲労物質であることは否定されています。

科学は例えるならば碁盤が無限にあるオセロと同じで、常に白黒が一気に逆転する可能性を秘めているのです。

今日科学的に正しいと言われていることも10年後も正しくあれるとは限りません。

そして単純化本能の否定は科学を懐疑的に見る目を持つことになりますが「科学的」が市民権を得ている現状でこの思い込みを捨てるのは簡単ではないでしょう。

また、一つの理屈が正しいとしても別の視点から見ればその理屈の正しさも危うくなることもあります。

昔書いた話で例えをあげます。

栄養学だけで判断するならいわゆる「完全食」さえ食べていれば十全に思えます。

しかし、摂取した栄養素が全て体に吸収されるわけではないし、腸内細菌のバランスの問題も考えると栄養素だけを考慮するだけでは足りないでしょう。

そこまで考えると栄養学がいくら正しくてもそれだけでは十全でないことが分かります。

結局この項目も長々書いた上に肯定してしまう結果になってしまいました。

犯人捜し本能 - 「だれかを責めれば物事は解決する」という思い込み

これもまぁその通りだと思うのですが、責めただけで物事が解決するなんて別にみんな本気では思っていないと思います。

「やり場のない怒り」というものがありますが感情が発生すればその感情を発散する必要がでてきます。

例えば被告人に息子を殺された親が死刑を求刑して、実際に被告人が死刑になったとしても死んだ息子は帰ってこないし物事は解決しません。

しかし被害者の気持ちの整理をつけるために犯人を責めることを否定することはできません。

しかも犯人の生い立ちを紐解いてみると「人を殺してしまう衝動に駆られても仕方ない」人生を歩んできた可能性もあり、そうなるとその衝動を植え付けた環境が真の元凶ということになります。

そうやって過去を紐解いていくと「だれかを責めれば物事は解決する」というのは思い込みになりますし、紐解くほど責める対象があやふやになっていきます。

しかし、実際に息子を殺された親が「犯人を責めても物事は解決しないよ」と言われても到底納得できるわけがありません。

混迷を極める中東問題も別の宗派を責めたところで問題は解決しないのはみんな分かっていますが、それぞれの宗派は自分たちが正しいという主張は絶対に譲れないですから永遠に問題は解決することはないでしょう。

人間はなにか問題が起きたとき、なにかに責任を求めずにはいられない生き物なのです。

焦り本能 - 「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み

去年起きたトイレットペーパー品薄事件を思い出してください。

原料の輸入が減って生産量が下がって品薄になるというデマが流れました。

実際はそんなことはなくトイレットペーパーの供給量は普段どおりでした。

しかし、現実ではあらゆるスーパーや薬局、コンビニからきれいにトイレットペーパーが消失しました。

ファクトで判断すると商品の流通量は変わらないのですから「いますぐ手を打たないと大変なこと」にはならないはずです。

しかし現実は「大変なこと」になりました。

「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込みが「いますぐ手を打たないと大変なことになる」を具現化させたのです。

自宅トイレのトイレットペーパーが残り少ない人だと「今すぐ手を打たないと」本当に「大変なことになった」のです。

自分もそれほどトイレットペーパーのストックがあったわけではないので、あらゆるお店からトイレットペーパーが消失したのを目の当たりにしてかなり焦りました。

この例から焦り本能を思い込みとして切り捨てることにもリスクがあることが分かります。


「世界を正しく見る」という概念自体が欺瞞なのです。

人にとって世界とは自分自身と自分の周りが全てであり、その外にあるものは「世界」ではないのです。

99%がそうであっても1%が違っていて、その1%の当事者が自分だとすれば周りがいくら「世界は99%だよ」といっても自分にとってのファクトは1%のほうなのです。

工場倉庫にどれだけ潤沢にトイレットペーパーがあったとしても自宅のトイレにトイレットペーパーがなければおしりを拭くことはできないのです。

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