< 技術的遺産相続人 | 情報量と説得力 >
文章量:約2200字

教祖は無明クリエイター

いま、阿含経典を読んでてふと思ったけど、宗教における教祖的な存在って、無明を照らしはすれど、現実の個々人の問題解決には興味がないように思える。

無明により行があり、行により識があり、識により名色があり、名色により六処があり、六処により触があり、触により受があり、受により愛があり、愛によって取があり、取によって有があり、有によって生があり、生によって苦が生じる。 無明を滅すれば行が滅し、行を滅すれば(〜中略〜)生を滅すれば苦が滅する。

と言われたところで「つまりどういうこと?」としか思えない。

それが真理を言葉にしたものであったとしても、凡夫の自分にはてんで分からない。

コーランにしろ新約聖書にしろ歎異抄にしろ、聖典と言われる類のものは、なんの解説もなく、それ単体だけを読んでも一般人には内容がよく分からないと思う。

じゃあ、教祖の何が偉いのかというと、教えそのものにあるのではなく、そこから考えを誘発させ、その結果、個人ごとに答えを導きださせるためのきっかけを提供する能力にあるんじゃないかという気がしている。

そもそも、現代に文章として残っている聖典・経典のほとんどは教祖が書いたわけではなく、弟子たちが書いたものがほとんどだ。

始祖が直接書いていたとしても、それは神からの啓示を書き下しただけであって、あくまでも自身の創作ではない。

雑阿含経にしろ新約聖書にしろ歎異抄(これは親鸞が書いたとされる教行信証がある)にしろ、聖典のほとんどは、弟子たちが師たる教祖(もしくは神そのもの)の言動を世に流布するために書き記したものである。

釈迦本人が何か書いたわけではなく、キリスト本人が書いたわけでもない。

親鸞が直接書いていたとしても、親鸞自体が仏教ブランチの一つの枝葉に過ぎない。

教祖本人ではなく、弟子たちが教えを文章にしてまとめている。

それが始祖であったとしても、神の弟子のようなもんだ。

この事実は、大抵の宗教がいろんな宗派を生み出しながら次々と枝分かれしていく原因となっている気がする。

人から人へ伝聞されるごとに編集の洗礼を受けるので、教祖(もしくは神)の意思とは裏腹に、後世に引き継がれていくごとに「教え」は大なり小なり変化し続ける。

それらの弟子の中で偶然にもカリスマ性を秘めた「教え」を表現した者が、新しいブランチを生やし、分岐した枝における新たな教祖として君臨するのである。

仏教はその最たるもので、数多くの宗派に分かれ、歴史を積み重ねるごとに、実に様々な「教え」や概念を言語化してきている。

仏教用語の語彙力の多さには感嘆するばかりだ。

世に蔓延る宗教的な教えのほとんどは、実は教祖が生み出したわけではなく、弟子たちの創作の結果がほとんどだったりする。

教祖はどちらかといえば、その創作物のアイデアの種を提供しているにすぎない。

そこから、直弟子たちが師からの伝聞を世に広めることにより幹が伸び、さらにそこから弟子ごとに解釈の違いが発生し、多数の枝が生え、その教えに集う人達が集まり、葉を生い茂らせるのである。

そして一本の大木へと成長する。

人が大木を見たときに観測できるのは幹と枝と葉であって、根や種は見えない。

宗教においてもそうで、人々が接することができるのは弟子たちの成果でしかない。

こう考えると、教祖はきっかけを作っただけで、宗教に対する影響度は人々が思っているよりも少ないんじゃないか。

しかし、教祖は腐っても教祖なので、やはり偉いと思う。

では、教祖の持つ偉さとはなんなのか?

その答えは哲学の作用にある。

哲学の本質は問答(Question and Answer)にある。

某ガーラマンションのCMの通り、「問を持ったら、そこが始まり」なのだ。

では、その「問」は誰から授かるのか?

そう、それこそが教祖の役割だったのである。

教祖の「教え」は弟子からすれば「問」なのである。

最初に挙げた雑阿含経の引用のように、言葉としては表現されているが、それが具体的にどういうことなのかはよく分からない。

なんなら釈迦も「汝らは、それを聞いて、よく考えてみるがよろしい」と言っている。

よく分からないということは、即ち「答え」を導き出さなければならない「問」なのである。

教祖は「答え」を直接授けるのではなく「問」を持ってして間接的に「答え」を導き出させるのである。

まさに教育そのものである。

しかし、物事の解釈は十人十色なので弟子ごとに「答え」も変わってくる。

さらに、弟子の出した「答え」も、弟子の弟子からすれば難しい「問」になるので、弟子の弟子は新しい「答え」を導き出そうとする。

さらにさらに、弟子の弟子の「答え」は弟子の弟子の弟子の「問」になって────といった具合に無限に問答が続いていくのである。

まさに宗教は哲学の持つダイナミズムそのものといっても過言ではない。

こういった理由から、宗教は時を重ねるごとに、導きだされた数多の「答え」ごとに宗派が発生し、どんどん枝分かれしていくのである。

「問」がなければ「答え」もない。

そういう意味では「問」は「答え」よりも大事なのである。

クイズで正解する人よりもクイズの問題を作る人のほうが偉い。

問題がなければ、そもそもクイズで遊べないのだから。

無知の知を知らなければ、知を探求することもできない。

そういったわけで、教祖が偉い理由は、解くべき問題を提供してくれるからで、ゲームクリエイターならぬ無明クリエイターとしてのエンターテインメント性にある。

教祖は無明の存在を教えてくれるが、それを照らすのはあくまでも個人個人なのである。

無明を照らし光明に変える行為こそが「生」そのものなのだから。

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