マジョリティーという道徳
前回、善悪の区別自体がエゴである話をしました。
残念ながら、正しかったり真実であったり正義であること、イコール善とはなりません。
見方や立ち位置によって善は玉虫色に変わります。
そのへんの話は前回書いたとおりです。
実は、善の源泉はただ(ある特定の範囲内で)マジョリティーであること、だけなのです。
ここで一つ、思考実験をしてみましょう。
誰かがDメールを送信して、今この瞬間(2022年3月時点の日本)、世界線が変わってしまったとしましょう。
あなたはリーディングシュタイナー持ちの人間で、世界線が変わる前の記憶をそのまま保持しています。
なんと新しい世界線では街を歩く人はだれもマスクをしていません。
Covid-19の状況は世界線が変わる前と全く一緒なようです。
あなたは今までずっとマスクをしていたし、感染予防の事も考えて、今まで通り外出時はマスクをつけて生活することにしました。
外を歩いている分には今までと特に変化はありませんでした。
しかし、仕事で客先の人と商談をするときに問題は起きました。
「クライアント様と商談しようって時に風邪も引いてないのに顔を隠したままなのは失礼でしょ?」と先輩に突っ込まれました。
あなたは「いや、コロナの件があるので感染予防のためにマスクをつけているのですが……」と答えます。
しかし、「何言ってるの?マスクをしてるのはあなただけでしょ?どうして取らないの?顔を出さずに商談するなんて相手に対して失礼だと思わないの?」と言われました。
あなたは「コロナの流行を食い止めるために、周りのことを思ってつけているんです!科学的にもマスクの感染予防効果は証明されています!それなのになぜ他のみんなはつけないんですか?」と応戦します。
「それがなんなの?そんなの気にしている人なんて誰もいないわよ。他のみんなも誰もつけてないじゃない。とにかく客先の人に失礼だからはやく取りなさい」と言われてしまいました。
さて、あなたは感染予防に貢献するか会社の利益に貢献するか、どちらを選択しますか?
たぶん、この時点で9割方の人はマスクと決別すると思います。
「いやいや、コロナの驚異は変わってないんだから、それぐらいのことでマスクやめるわけ無いじゃん」と思ってるあなた、甘いです。
周りの人全員が自分と違う意見の中で自分の意志を貫き通すのはものすごく難易度の高いことです。
渋谷のスクランブル交差点で横断歩道の信号が青になって誰一人足を踏み出さない状況であなたは横断歩道を横切れますか?
絶対に「みんなが青なのに歩き出さないのにはなにか理由がある、みんなと同じ様に止まって様子を見よう」となるはずです。
ここで「青になった。渡ろう!」となるのは、よほどの意志の固さがあるか単にバカなだけです。
マスクに話を戻して、あなたが少し意思の強い人だったとして、さらに自分(と科学)の正しさを信じてマスクをつけたまま商談を乗り切ったとしましょう。
その後に待っているのは上司からのお叱りと始末書、ゆくゆくは減給、最悪には解雇です。
社会の不文律は強力です。
本当にそれだけのことで、下手をしたら職を失うことになるのです。
周囲の所作に合わせられないことは不道徳であり、周りの人々から物理的な距離を取られます。
私は不文律(not ルール)に抗ったことで、実際に始末書も書いたし、減給もしたし、退職までした経験があるので分かります。
そうまでなってしても、まだあなたはマスクをつけ続けることができますか?
普通の人であれば、解雇になるまでの間に「なんか知らんけど、この世界線では誰もマスクなんてつけてへんのやから、科学的に正しかろうが自分の職を守る方が大事や、そもそも自分だけが感染予防してても意味ないやん」となってマスクを外すことになるでしょう。
かくしてあなたはそれ以後、マスクをつけている人に対して「あなたの気持ちもわかるけど、世間を渡っていくには外したほうがいいですよ」と善行を重ねるようになるのです。
__といった具合に、善の源泉が「正しさ」ではなく「みんなの実際の言動」にあることが分かっていただけたと思います。
もう一つ、自分が過去に自動車教習所の救護講習を受けたときのお話をします。
教官が「心臓の位置は体の左側か右側、どちらにありますか?」と質問し、みんなが「左」と次々と答えていく中、自分は「真ん中」と答えました。
自分が回答した瞬間、バカにするような失笑が場を包みました。
しかし、教官が「正解です」と言った途端、場の空気が静寂に包まれました。
世間一般的なイメージだと心臓の位置は体の左側ですが、実際はほぼ体の中央にあり、少し左寄り程度ぐらいの位置にあります。
自分は心臓が中央にあるという正しい知識を持っていたのにも関わらず、周りの反応は失笑でした。
もし教官がおらず、正解を言わないままであれば、自分は頓珍漢なことを言うただの変わり者としてみんなの記憶に刻まれていたことでしょう。
ちなみに、このあと別の問題でも、他のみんなが間違った回答をし、最後に自分が正解を言う(2回目のときはあえて教官が自分を最後の回答者にした)やりとりがありましたが、そのときも自分の回答時には失笑が漏れていました。
このように、ある特定の範囲内におけるマジョリティーの言動が振る舞いの正しさ(善)を決めるのです。
善は絶対的ではなく相対的な概念なのです。
そして、マジョリティーが期待する正しい振る舞い(相対的な善)のことを人々は道徳と呼ぶのです。
昔書いた寓話で、太郎くんの苦しみの源泉はマイノリティーに起因していたことが分かります。
太郎くんにも太郎くんの自転車にも何も罪も悪性もありません。
世に存在するすべての自転車がピンクのタイヤであれば、太郎くんは何事もなく快適な自転車ライフを送れたでしょう。
マジョリティーが道徳であるならば、マイノリティーは不道徳になりうる、ということです。
マナー講師が失礼クリエイターと呼ばれるように、マナーという善があるから、同時に失礼という悪も生み出す、これと同じ構造です。
太郎くんはマイノリティーという不道徳を成した罪で人々から虐げられたのです。
上記で書いた2つの話からも、自分がマイノリティーであるだけで、周りから虐げられるに値することが分かります。
ダイバーシティが叫ばれて久しい現在ですが、じつは善や道徳の前にはダイバーシティは存在しえないのです。
今までで書いてきたとおり、マジョリティーが善や道徳を決めるからです。
マイノリティーを許容することは即ち、善や道徳からの逸脱を許容することなのです。
多様性とは「普通」をゴミ箱に叩き捨てることなのです。
「いやいや、最近はマイノリティーの人権も守られてるよ」と思われる人もいるかもしれません。
では、あなたの親しい交友関係にあからさまなゲイやレズはいますか?
知的障害で永遠と意味の分からないことをぼやき続けている人はいますか?
周りのみんなから煙たがられているような人がいますか?
重罪を犯した前科持ちの人はいますか?
ほとんどの人はいないでしょう。
つまりそういうことです。
あなたはピンクのタイヤの自転車に乗っている変わり者などには、そもそも近づかないはずです。
いくら多様性を口で叫ぼうとも、現実ではマジョリティーから逸れた人とは距離を置くはずです。
いくら人道支援を声高に叫ぼうとも、デモ行進をしようとも、あなたは実際に難民を自宅に匿うことまではしないでしょう。
今存在するダイバーシティとは、外野で熱い声援を飛ばしている観客がいるだけの状態です。
フィールド上では依然、差別渦巻くマジョリティーによるマウント合戦が繰り広げられているのが現状です。
理想としては存在するが現実にはほとんど存在しません。
現実では、概念として存在するか、運良くマジョリティーに市民権を貰ったマイノリティーが多少存在しているだけの状態です。
市民権の発行権がマジョリティーに依存している時点で、マジョリティーが道徳を保有している事実は変わりません。
マジョリティーが嫌悪感を抱いたり視認できないマイノリティーは依然、多様性の外にあります。
ダイバーシティをほんとに有言実行するためには、悪を含めた清濁併せ呑む懐の深さと、四面楚歌を耐え抜く強靭な肉体と精神が全人類に求められるのです。
逆に言えば、セーラー服を着ながら堂々と街ナカをチャリンコで走り回るおじいちゃんのような人は、四面楚歌を耐え抜く強靭な肉体と精神が宿っているので、勝手にダイバーシティを具現化しているわけです。
最後まで書いて思い出したんですが、似たような話を昔もしてましたね。
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