悪人正機
ただ善業と悪業との二つは
人がこの世において作りしもの
それこそは彼みずからのものにして
それをもちて彼は行くのである
雑阿含経 四六、七、愛己
ノブレスオブリージュと悪人正機(あくにんしょうき)は同じ思想をもとに生まれた考え方のような気がします。
ノブレスオブリージュを雑に説明すると、「持つ者が持たざる者の分まで責務を負え」という意味合いで、悪人正機は「悪人こそが救済の対象となる」と言った意味合いです。
ちなみに、悪人正機の私個人的な解釈は「そもそも人間ごとき存在が善悪の区別をつけるなどおこがましい」です。
個人にとっての善が、周りの人にとっても善になるとはかぎりません。
みんなを助けるために良かれと思って残業をしていたのに、自分が残業をしてしまったせいで職場が残業前提の環境に変わってしまうこともあるでしょう。
ある集団にとっての善が、他の集団にとっての善になるともかぎりません。
朝鮮半島にある某国家が自国防衛のために核武装をしても、世界で2番目に多く核兵器を保有している某合衆国からすれば、アクシスオブイービル(悪の枢軸)になるのです。
人類にとっての善が、地球にとっての善になるともかぎりません。
パクス・アトミカ(核のもとの平和)は人類に平和をもたらしましたが、核の存在そのものは地球にとっての驚異です。
地球にとっての善が、宇宙にとっての善になるともかぎりません。
宇宙にとってすれば地球など、文字通り、星の数ほどある星の一つに過ぎません。
日々爆発的に膨張し続ける(ほんとに?)宇宙にとっては地球環境など部屋に落ちているホコリほどの影響力もないでしょう。
宇宙にとっての善が、神にとっての────といった具合です。
もはや宇宙にとっての善がなんなのかさっぱり分かりませんが、それを含めて森羅万象の生みの親ともなると、善悪で何かを判断するのがバカらしくなってきます。
善行だけでなく悪行もまた然りです。
個人にとっての悪が、周りの人にとっても悪になるとはかぎりません。
妻に内緒で風俗で遊び倒していたとしても、風俗嬢からすれば、それで生活を賄えているわけです。
ある集団にとっての悪が、他の集団にとっての悪になるともかぎりません。
某合衆国から悪呼ばわりされた某国も、その隣りにある某新興大国や、世界で一番核兵器を所有するソビエトの成れの果ての某国からすれば、悪ではなく、支援の手を差し伸べるべき利害の一致したパートナーとして見ているかもしれません。
人類にとっての悪が、地球にとっての悪になるともかぎりません。
コロナ禍は人類からすれば文字通り禍(わざわい)ですが、地球環境の保全の観点(自分は自然環境に異常や正常という概念を当てはめません。ただ環境が「変化」しているだけです。地球は創世記から永遠と「変化」し続けて今に至ります)からすれば良かったようです。
地球にとっての悪が、宇宙にとっての悪になるともかぎりません。
宇宙にとっての悪が、神にとっての────といった具合です。
先ほど書いたように、地球や宇宙クラスまで大きくなると善悪の問題があやふやになってきます。
そう考えていくと「そもそも人間ごとき存在が善悪の区別をつけるなどおこがましい」となるのです。
ある側面から見れば悪でも、別の側面からみれば善になるようなことはいくらでもあるでしょう。
世の中で起こる現象は、ダイコトミー(二元論)で切り捨てられるほどシンプルではないのです。
100%純粋な善もなければ、100%純粋な悪も存在しないのです。
善悪の区別も、もちろん必要なことではありますが、善悪の区別をつけることは、善に潜む悪を切り捨て、悪に潜む善を切り捨てることにほかなりません。
そういった区別(差別)は、突き詰めれば自分(たち)の利益のために行うもので、いわばエゴなのです。
そして、エゴであるがゆえに贖罪の気持ちがわくことも、それを行うことも自然な成り行きといえます。
悪人正機は善というエゴの贖罪なのです。
日本を含め世界には恩赦という概念があります。
恩赦とは、ある特別な契機をもって罪人の罪を許し、服役から釈放してあげることです。
まさに悪人正機です。
普通の人生を歩んでいる方からすると想像できないかもしれませんが『ケーキの切れない非行少年たち』の世界観からすれば、なんの罪も犯さずに平穏に生活できる我々は「持つ者」であり、少年院や刑務所に入ってしまうような人は「持たざる者」なのです。
最近の流行りで言うと「親ガチャ」の当たり外れの違いです。
犯罪を犯してしまう背景には、それ相応の生い立ちによる問題が横たわっています。
物事には因果があります。
犯罪を犯すには、それ相応の理由があるのです(もちろん例外もあります)。
生まれた瞬間は誰だって泣き叫ぶことしかできない無垢な存在です。
そこから、生まれ持った心身の特徴や、育った環境によって、犯罪をしなくて済む「持つ者」と、犯罪を起こしてしまう「持たざる者」に別れるのです。
犯罪者を収容することも「持つ者」たちの平穏を保つために、善悪の区分をつけて「持たざる者」たちを排除しているだけにすぎません。
恩赦はその「持つ者」が「持たざる者」にあたえるノブレスオブリージュなのです。
「君の人生はたまたま運が悪かった。たまたま運が良かった我々がもう一度社会に迎え入れるから、もう一度頑張ってごらん」といった具合です。
阿弥陀如来からすれば衆生はすべからず悪人です。
「持つ者」だろうが「持たざる者」だろうが本質的には差がないのです。
だったら「持たざる者」になった者に手を差し伸べ「持つ者」へとしてやる、衆生界における情けとしての救済が存在しないと不公平というものです。
ほとんどの救済の思想は、悪人は悪人として切り捨てるだけです。
悪人は地獄に落ちるから善人になりなさい、と。
しかし、ほとんどの悪人は好き好んで悪人をやっているわけではありません。
もしくは、悪を悪として認識する能力が欠如しているだけかもしれません。
善性が救済の前提条件であれば、悪人は悪人のままで地獄に落ちるしかありません。
悪人を救わずに悪をのさばらせておくと、いずれ悪がはびこり、善性で保っている秩序に影響を及ぼしかねません。
だから、本当の済度は悪人を救ってあげることにあるのです。
よって、悪人にこそ救いがあるとした「悪人正機」はとても素晴らしい思想だと思っています。
そもそも、何かしらの希望がなければ人は頑張ろうとはしません。
そういった動機づけをすべての衆生に与えるから「悪人正機」には価値があるのです。
そして、日常というギフトを授かった者は、ノブレスオブリージュとして、非日常の中にある人に光明を照らす義務を負うのです。