< 限界を超えるな | プログラミングはスキルじゃなくて習慣 >
文章量:約2400字

恋のダニング=クルーガー効果

※業界用語で「完全に理解した」はチュートリアルが終わった段階という意味で、「ナニモワカラナイ」は本質的に抱える問題が分かるほど理解が進んだことを表し、「チョットデキル」はその道のプロを指します。


なんか男女の恋愛ってダニング=クルーガー効果の例の曲線に似ている気がする。

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「完全に理解した」から付き合ってみたものの、しばらく一緒に連れ添っていると今まで見えてなかった互いの様々な想定外の言動に直面し、そして、それらのどれかが致命的な致命傷になり「ナニモワカ(リタクナ)ラナイ」になって性格の不一致から決別することになる。

しかし、長く円満な家庭を築ける夫婦は、そこを堪えて、さらに相互理解を深めながら「チョットデキル」に到達する。

「完全に理解した」ときはポジティブで聞き心地のいい言葉が飛び交い、「ナニモワカラナイ」ときはネガティブで醜悪な言葉が飛び交い、「チョットデキル」になると言葉を発する必要性自体が減る。

ポジティブな言動や聞き心地のいい言葉は基本的に「完全に理解した」フェーズにいるからこそ、発することができるんだと思う。

しかし、「完全に理解した」フェーズは理解の解像度が低い。

なんとなく認識しているだけで、細かい部分や具体的なことは一切考慮していないからいい感じの言葉が使える。

「絶対大丈夫」や「必ず報われる」といった言葉も、その結果責任を自身の命と財産で賄う義務が発生するなら、ほとんどの人はそういった言葉の使用をやめるだろう。

それと同じように、理解に対する欠如について無知であるからこそ気軽にポジティブで聞き心地のいい言葉を発することができる。

反対にネガティブはどうだろうか。

ダニング=クルーガー効果の例の曲線的に言えば、「ナニモワカラナイ」フェーズにいる。

理解度は「完全に理解した」より上だ。

理解がより進んで「これは簡単に迂闊なことは言えないぞ」となる。

「絶対大丈夫」と言ったものの親ガチャの外れっぷりを目の当たりにし「多分大丈夫じゃない……?」や「それは厳しいね」と、相手のバックボーンを知るほどにどんどん現実的な意見になっていく。

恋人や夫婦も相手を深く理解していく過程で、何かしらの「これは自分には合わない」要素を見出してしまうものだ。

そしてそれがどんどん堆積していき、深く色々知るほどに嫌悪感を植え付けられてしまう。

逆に、百年の恋も冷めるような言動も、その言動を観測さえしなければずっと恋に落ちたままでいられる。

相手が浮気をしていても、その浮気を知るまでは浮気をしていないのと同じことだ。

相手の浮気を知ることは相手の理解度を深めるのと同義だ。

何故なら、自分の知らなかった相手の新しい属性を知ることになるのだから。

相手の浮気を「知った」時点で初めて「こいつは浮気をするクズ野郎」となる。

シュレーディンガーの猫よろしく、知るまではそれはそうとはならない。

そうとはなっていないから、それまでは「愛に応えてくれる誠実な人」でいられるのだ。

このように理解を深めることは良い面もあるかもしれないが、悪い面もある。

そして人は、良い面よりも悪い面を深く印象付けられてしまう生き物なので、知れば知るほどネガティブな言動になってしまうのはしょうがない部分がある。

だから理解を深めると基本的にはネガティブな言動が増えてしまう。

しかし、ネガティブな言動が増えたことをポジティブに捉えると、対象の理解が進んだ認識となる。

そして、ダニング=クルーガー効果の例の曲線は、急上昇のち急下降を経ると、なだらかに理解曲線が上昇していく「チョットデキル」フェーズになる。

夫婦間で例えると、様々な人生イベントの紆余曲折を乗り越えながら徐々に家族の絆を深めていく様に似ている。

夫婦関係が円熟してくると、ポジティブな言葉もネガティブな言葉も少なくなり、必要最低限のやり取りだけになる。(たんに体力も気力もなくなっただけかもしれないけど)

理解の解像度の段階による言動の表出もこれに近いものがある。

理解度の低い状態が一番饒舌になり、少し深淵が見えてくると急にネガティブになり、そして、理解を深めるごとに泰然自若になり、あまり口を動かすこともなくなる。

某エンジニアの記事が集まるサイトでは、新人や初心者ほど嬉々としてノウハウを垂れ流し、それを読んだ中堅どころはコメントで批判しがちになり、それでいて何十年と生き抜いてきたベテランはあまり見かけない。

理解の解像度が低いとき、人々はそれについて強く語りたがる。

自分にとって何かしらのポジティブ要素があるから人は興味を抱く。(ネガティブなものやまったく理解できないものにはそもそも興味を持たずスルーする)

対象に興味を持ち始めたばかりだから当然、理解の解像度は低い。

だから理解の解像度が低いときはポジティブになる。

言葉を操り始めた子供が饒舌なのと同じだ。

そして、ある程度解像度が上がってくるとネガティブな部分が目につくようになり、言動が反抗的になる。

思春期の子供が反抗期に入るのと同じようなもんだ。

そして、さらに、ある一定の理解の解像度を得ると、自分はただ実践するのみとなるので、いちいち言葉で語る必要がなくなる。

立派な人はその背中だけで人を引っ張っていけるようになるのと同じことだ。

このように、理解の解像度により表出する言動が変わる。

理解など置いといて、ただ瞬間的に楽しくありたいのであれば、饒舌な人の話を聞けばいいし、少し踏み込んで物事を理解したいのであればあえてネガティブな人の話も聞くべきだし、さらにそれについて精通したければ寡黙な達人を見定めて、その人から知見を盗まなきゃいけない。

理解の解像度を深めるのに近道なんてなくて、人生を歩んでゆくがごとくじっくり向き合うしかない。

「お前だけを愛してる」から始まり「あなたは何も分かってない」を経て、最後には縁側で黙ってお茶を啜るようになる、やはり恋の軌跡はダニング=クルーガー効果の例の曲線に似ている。

Tag: コミュニケーション