アンテナとフック
「常にアンテナを張っておけよ」みたいな話をよく聞きます。
しかし、アンテナを張っているだけで、より多くの情報や気づきを得られるわけではないと思います。
そもそもアンテナなど張らずとも、我々は常に情報の波にさらされています。
そのうえであえて「アンテナを張れ」と言うことの本意は「物事の細かい部分まで注意を払ってしっかり観測しなさい」や「自分の興味のないことにも目を向けてみよう」といったことだと思います。
しかし、物事の細部に意識を向けたり、興味のないことに興味を持つのは、みんなが思っているよりも難易度が高いと思います。
例えば、日常会話で相手の喋っている言葉、本や記事の文章などに「般涅槃(はつねはん)」という単語があったとしても、だいたいは聞き流すか、読み飛ばすと思います。
その意味をあえて確かめたりなどはせずに、思っても「厨二病乙」ぐらいの冷笑ですますでしょう。
でもまぁ、一つの単語であれば「般涅槃ってどういう意味?」と気軽に聞いたり、調べてみることもあるかもしれません。
ただ、「妙行足(みょうぎょうそく)により十二縁起(じゅうにえんぎ)を滅尽(めつじん)し般涅槃を成就すれば解脱に至る」までになってくると「日本語でおk」となって、完全に聞き流すか読み飛ばされることでしょう。
このように日常において自分が理解できない話題になると、人は自然とその内容を遮断するようにできています。
自分だって、知らない話題で別段興味のわかないことに関しては、適当に聞き流したり読み流したりします。
アンテナを張っていくら電波を受信しようとも、チューニングの合わない電波はただの雑音にしかなりません。
アンテナを張るぐらいでは真に意識の高い人になるのは難しそうです。
そこで大事なのがフックの概念です。
フック、ようするに「引っ掛け」のことです。
いくら情報を吸収しようとしても、その情報が自分に引っかからなければ、情報は自分に取り込まれずに、そのまま馬耳東風よろしく、流されていくだけです。
しかし、なにかしら自分の中に引っかかるものがあれば、情報を引き寄せることが可能になります。
先ほどの日本語でおkの文章例だと、仮に「解脱」の概念が自分の中にあれば「最初のほうの言葉の意味はさっぱり分からないけど、なにか解脱につながる方程式っぽいことを言ってるぞ」となり、引っ掛かりがあるおかげで馬耳東風を免れることができます。
このように何かしらの取っ掛かりが自分の中にないと、いくら情報を摂取してもその成分は吸収されずに体の外にそのまま排出されるだけです。
アンテナを張る前にチューナーを準備して、コンテンツを受信できる状態にしておくことが重要なのです。
そして、手持ちのフックが多ければ多いほどチューニングに合うチャンネル数が増えて、より多くの知識を受信することが可能となるのです。
まるで、マタイ福音書13章12節みたいですね。
コミュニティにおける約数束縛論的にもフックの質と数は、自身が受信できる電波の質と量に比例します。
さらに、手持ちのフックが多いと、相手からの情報を引き出すのにも一役買います。
最初のほうで提示した「般涅槃」なんて言葉は、日常会話において、まず使うことなどありません。
相手がそれなりに仏教に興味があり、知識があり、その言葉を咀嚼できる素養があると判断した上でないと、そんな難しい言葉をそもそも使おうとは思いません。
このことを逆の視点からみれば、自分の手持ちのフックが相手から引き出せる情報の質を決めている、と捉えることができます。
分かりそうな人には「RailsとReactでSNSのプラットフォームを作ってる」と説明し、分からなさそうな人には「パソコンをカタカタするお仕事です」と使い分けるようなことです。
このように、相手の持つフックの質と数の違いで、相手から得られる情報密度が変わってくるのです。
そうであるならば、より詳細な情報を引き出せたほうがお得です。
「なんかプロテインは体にいいらしいよ」よりも「プロテインには大まかにホエイ、カゼイン、ソイの3種類あって、ホエイは素早く体に吸収されるから運動後に飲むのがいいよ」と説明されたほうが情報として有益です。
質問の流儀でも書きましたが、相手が自分に対して「こいつには話が通じそう」と思ってもらうことが大事なのです。
そのために、あらかじめフックをたくさん仕込んでおく必要があるわけです。
それが世間一般的にリベラルアーツと呼ばれるものなんでしょう。
とはいえ、アンテナを張る余裕もフックの数も結局は環境要因で決まるので、自分のアンテナやフックを気にするよりも、まずはアンテナを立てる位置を変えてみる、要するに、自分が置かれている環境を変えてみるほうが行動としては正しいのではないでしょうか。
所詮、個人を形作るのは意思ではなく環境ですので。
Tag: コミュニケーション