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文章量:約2600字

上から来たものを下へ受け流すの社会

当エントリはFediverse Advent Calendar 2022第二会場の1日目の記事です。


少し前に、知識量と意思決定の質は比例しない話を書きましたが、そもそも個人が昔に比べて知識をいっぱい蓄えているという前提が間違っている気がしています。

自分は人に対してあまり個性を感じない人間なんですが、その理由が何となくみえてきました。

知識や情報は個人に属するのではなく社会に属するものだと分かったからです。

だいたいみんな、同じようなタイミング、同じような話題で同じように感想を言い合っているだけで、それは個々人の意思表明というよりかは、社会に巻き起こったイデオロギーの鳴動の一部と認識するほうがしっくりきます。

世間にあふれる知識や情報は昔に比べて格段に増えたでしょう。

しかし、個人が持つ知識量は増えたのでしょうか?

俗に言うおばあちゃんの知恵袋は、個人(おばあちゃん自身)の持つ知識と言えそうですが、ツイッター上でリツイートした投稿を個人(リツイートした人)が持つ知識として扱うには無理がある気がします。

よほど感銘を受けた内容であれば頭の片隅に残るでしょうが、たいていの内容は一ヶ月も経てば忘却の彼方へと消え去っているでしょう。

現代人は情報のキャッチアップやコミュニケーションを各種SNSにかなり依存している状態といえます。

SNSにおいて一番核となるコンセプトは「拡散」です。

インスタなら写真を、ツイッターなら情報を、フェイスブックならお気持ちを、フォロワーに対してばら撒きます。

そしてそれらは、共感(いいね)を得るために行っていると言っても過言ではありません。

ツイッターの「リツイート」に代表されるように各種SNSには投稿を人々に拡散するための仕組みが備わっています。

フェイスブックであればシェア、マストドンであればブースト、ミスキーであればリノート、といった具合です。

また、ハッシュタグと呼ばれる仕組みもほとんどのSNSで実装されており、投稿の拡散やイデオロギーの形成に一役買っています。

さて、この「拡散」という行為ですが、これはいわば情報を「右から左へ受け流しているだけ」だったりします。

SNSで大多数の人がしていることを客観的に表現するなら、上から来たもの(タイムライン)を下へ受け流している(ROM専 or リツイート)だけなのです。

自分で投稿したとしても、流れ(タイムラインやトレンド)に言及した内容が多いのではないでしょうか。(もしくはただの独り言)

ですので、SNS上には玉石混交の情報が無限に存在していますが、それぞれの情報はただインターネットの海に放出されるだけで、別に誰かが所有しているわけではありません。(厳密にいえば投稿の著作権は投稿者にありますが、その情報がどう扱われるかは投稿者の窺い知ることのできないことです。例えば村上選手がシーズン56号ホームランを打ったという記録は村上選手のものですが、その「情報」に所有者は存在せず、誰にでも扱うことができます)

いわば、情報の「流れ」があるだけなのです。

ふだん、我々はその「流れ」に乗ってきた情報をピックアップして日常のやりとりをしています。

その内容がその日その日の「流れ」によって多種多様であることから、自分たちがたくさんの情報や知識を「持っている」と思い込みがちですが、そんなことはありません。

情報は自分に留まることなく、流れの中に戻って流れていくだけです。

ツイッターのリツイートや記事のシェアは、自分の考えを表明している風に見せかけて、ほんとは、ただただ情報を拡散しているだけに過ぎないのです。

例えば、ある人が「ドル円相場が150円に!」というニュースをリツイートしたとします。

そこで、その人に「それが具体的にあなたにどういう影響を与えるのですか?」と突っ込んで聞いたとしましょう。

たぶん、「物価がヤバい」とか「家計に影響する」だとか、そのニュースに付随した情報を開陳してくれるでしょう。

しかし、これはニュースが発した将来の予測であって「自分の考え」ではありません。

その人が資産をドル建てで運用していて「50万円含み益が出て嬉しい」であれば自分の意見と言えるでしょう。

北朝鮮からミサイルが飛んでこようが、ケツ穴が確定しようが、アメリカの消費者物価指数の上昇率が市場の期待感を下回ろうが、自分に影響がない限りは、ただただ情報が右から左に流れていっているだけなのです。

ほとんどの個人はただの情報拡散装置なだけであって、情報の発信源ではありません。

自分が人に対してあまり個性を感じないのも、コンテンツよりコンテキストを重視するのもそのためです。

情報は本体よりも、そこから生じた振動のほうが圧倒的にデカくなるのです。

オリジナルのコンテンツは特定の一部にのみ水源として存在し、海に近づくほどに川が広がっていくように、どんどんコンテンツが増幅していき、その流れがコンテキストの川となるのです。

水源は同じでも上流と下流では水質が変わってきます。

ですので、ある一部分の水を汲み取って分析して「この川の水質はこうです」とは断定できません。

それと同じように、無作為に選んだ人間一人の趣向が分かったところで何もなりません。

しかし、集団から抽出した統計データにはコンテキストとしての利用価値があります。

例えば、電車で隣りに座っている知らないおっさんがちいかわ好きだと分かったとしても、それは果てしなくどうでもいい情報ですが、ちいかわは若い女性に人気があるという情報には価値があります。

はたまた、タピオカのムーブメントはみんなの知るところですが、実際にタピオカ屋をやってムーブメントを生み出した人たちに興味を持つ人はほとんどいません。

それがどんな人達だったのかほとんどの人は知りませんし、私も知りません。

今思うと、なぜあの頃はみんな無限にタピオカミルクティーを飲んでいて、今となってはほとんど飲まれなくなったのか、さっぱり分かりません。

タピオカ自体に価値があったなら今でも無限に飲まれているはずです。

しかし、そうはなっていません。

よって、タピオカというコンテンツに価値があったのではなくて、タピオカを右から左に流しまくってできたうねりが、人々をタピオカミルクティーの熱狂へと誘い込んだのです。

これがコンテンツよりコンテキストが大事だと思う理由です。

要は、知識や情報は個人が所有するものではなく、社会の中で常に流れ続けている漂流物だということです。

その流れがコンテキストや流行を生み、さらなるコンテンツを創造していくのです。

右から来たものを左へ受け流すだけの歌がなぜ流行ったのか、彼にその原因を求めても何も分かりません。

右から来たものを左へ受け流されたのは彼自身なのですから。

Tag: 哲学