コンテキスト消費社会
サブカル全盛の昨今、世の中には大量のコンテンツが溢れています。
エンターテイメントや趣味にとどまらず、コンテンツマーケティングに代表されるようにビジネスにおいてもコンテンツが重要なファクターになっています。
コンテンツとは直訳すると「内容」です。
今読んでいる文章も「コンテンツ」です。
そして当サイトにはこの文章以外にもたくさんの文章をストックしています。
当サイトにある自分が書いた一連の「コンテンツ」のまとまりは「ブログ」という単位で扱われています。
ちなみに、ブログは「メディア」で、メディアとは情報伝達媒体のことです。
メディアとはコンテンツ(商品)と読み手(消費者)を結びつける窓口のような概念です。
コンテンツがあっても、それが消費者まで届かなければなんの価値にもなりません。
誰の目にも止まらないコンテンツは存在していないと同義です。
そこでTVやラジオ、DVD、雑誌、新聞など様々なメディア媒体を駆使してコンテンツを消費者まで届けようとしているのです。
そして、ここ十数年でインターネットという圧倒的なメディアインフラが誕生しました。
一般ピーポーである一個人の自分がコンテンツを配信できているのもインターネットの力のおかげです。
メディアの種類が増えた分、昔に比べて大量のコンテンツを現代人は消費するようになりました。
現代を生きる我々は生活のかなりの時間、SNSを中心としたコンテンツのシャワーを浴び続けています。
ここまでの話でメディアの進化によりコンテンツが大量に生産されるようになり、かつそれが人々に届きやすい世界になっていることが分かりました。
その結果、世に溢れる様々なコンテンツは人々の生活様式や思想、行動に多大な影響を与えるようになってきていると考えられます。
21世紀頭の前後あたりから情報過多社会とよく揶揄されるようにもなりました。
みなさんも一度は「現代人は情報を過剰摂取している」といった内容の論説を聞いたり読んだりしたことがあると思います。
ここからが本エントリの本題なのですが、我々は本当に世に溢れる大量のコンテンツを消費して生活しているのでしょうか?
とある本を読んでいたら「それはちょっと違うんじゃないか?」という疑念がわいてきました。
日常の雑談やちょっとしたやり取りであれば、コンテンツの消費は物語の価値として働き、日常のコミュニケーションを多彩なものにしてくれます。
しかし、物語の価値にはプラスの側面だけでなく負の側面もあるようです。
物語自体はコンテンツですが、物語から派生した知識や情報はコンテキストとして作用するようになります。
コンテキストとは文脈のことです。
文脈とは文(センテンス)を解釈するための前提条件となる知識や情報のことです。
スターウォーズを知らない人が「Aくんは暗黒面に落ちた」と聞いてもチンプンカンプンですが、知っている人が聞けば「Aくんは悪者になってしまったんだな」と理解できます。
コンテンツが溢れる世の中であるということはコンテキストも溢れる世の中であるとも言えます。
コンテンツを味わって食すためにはコンテキストという調味料が必要な場合が多くあります。
コンテンツの消費の仕方にも、純粋に楽しむためのコンテンツ消費とコンテキストを仕入れるためのコンテンツ消費の2パターンがあるわけです。
最新作のスターウォーズを観るために過去作を全部観ることが後者で、最新作を観るのが前者の消費の仕方になります。
ですが、全てのコンテンツにコンテキストが必要というわけでもありません。
コンテキストを仕入れなくとも楽しめるコンテンツもいっぱいあります。
むしろそちらのほうが多いはずです。
『天気の子』を観るために『君の名は。』を見ておく必要はありません。
しかし、純粋に『天気の子』だけを観るのと『君の名は。』も鑑賞してから観に行くのと、新海誠監督について色々予習してから観に行くのとでは、それぞれ楽しみ方や映画を見たあとの感想が変わってくると思います。
コンテンツは一つですがそこに合わせるコンテキストは無限大にあります。
それこそ一人ひとりがそれぞれ歩んできた人生や価値観、その時の気持ちなどもコンテキストとして作用します。
そうなってくるとコンテンツの解釈は千差万別となります。
これがコミュニケーションを困難なものとしている要因ともなっています。
強固な共同幻想の上に成り立つコンテキスト(お金や国という概念など)であれば人の違いによる解釈違いは起きにくいでしょう。
しかし、コンテンツもコンテキストも巷に溢れかえっている現代では、コンテンツも多種多様でありコンテキストも多種多様で、2つをかけ合わせるとコンテンツの消費のされ方は人の数だけ存在することになります。
コンテンツの価値はコンテンツ自身だけの問題のように思われがちですが、コンテンツを人がどのように解釈するかは消費する側の持つコンテキストに依存する部分が大きかったりします。
コンテンツがご飯(お米)だとするとコンテキストはおかずです。
料理を味わう時はおかずが主役であり、ご飯は主食とは呼ばれるものの、食事の主役は常におかずなのです。
外食する時はご飯ではなくお肉を目的に食べに行きますし、ラーメンの味の本質はスープです。
そう考えるとコンテンツよりもコンテキストのほうが重要だと思えてこないでしょうか。
ここまで書いてきてやっとタイトルに言及できるようになりました。
我々がコンテンツを消費していると思いこんでいることは、実はコンテキストの消費なのではないか。
先程のスターウォーズの例であげたように、文章があったとしてもそれを解釈するための文脈を知らないとうまく文を消化することができません。
そういった意味で文脈は内容よりも大事な要素となります。
人や場面によっては「暗黒面に落ちた」を「悪者になった」という意味以外で「強大な力を手に入れた」や「心を閉ざした」「裏切った」という意味で捉えるケースもあるでしょう。
言葉はどこまでいってもただの言葉でしかないのです。
表現された言葉だけですべてがそのまま伝わると思ったら大間違いです。
自分の思考が正確に相手に伝わるためには…
- 1. 表現したいことが言語に存在するか
- 2. 表現したいことをちゃんと言語化できるか
- 3. 言語化したことが自分の実際の感覚と一致しているか
- 4. 受け手が自分と同じ意味で言葉を解釈してくれるか
これらすべてのステップを達成しなければなりません。
1は人類全体の問題で、2と3は自分の問題です。
4は相手の問題になります。
2のときにコンテキストが自分の表現する言葉に影響を与え、4のときにコンテキストが相手の解釈に影響を与えます。
このように伝達までのステップを分解して眺めると内容そのものより文脈のほうが伝達において重要な要素を占めていることがわかると思います。
さらに文脈は個々人が前提として持っているものだけではありません。
会話のやり取りの中で醸造されたり、文章全体の雰囲気や記事のタイトル、世間のイデオロギーなども大いにコンテキストとして作用します。
いわゆる「空気感」と呼ばれるようなものたちです。
ここまでコンテキストの影響が多くなると、やはりご飯(コンテンツ)をきっかけにしておかず(コンテキスト)を消費していると考えたほうがしっくりきます。
さらに、コンテンツの消化はコンテキストの認知を強化している側面もあります。
先程例にあげた、映画の最新作を観るために過去作を観る、といったように。
日々目にする情報が偏れば、偏った内容のコンテキストを植え付けることができます。
ワイドショーが環境問題を取り上げると「地球がヤバい」となり、政治問題を取り上げると「政治がヤバい」となり、経済問題を取り上げると「経済がヤバい」となり、途上国問題を取り上げると「中東とアフリカがヤバい」となり、軍事問題を取り上げると「核がヤバい」となり、感染症問題を取り上げると「ウイルスがヤバい」となります。
みんなが認識していないだけで、地球上のどこかには何かしらの「ヤバい」は常に存在しています。
そして、それらの「ヤバい」は自分の生活に対してどこまで影響を及ぼすかまでは深く考えないでしょう。
普段目にする情報がコンテキストとして作用して、その問題こそがすべての核心だと思いこんでしまい、その前提で情報(コンテンツ)を消費することになります。
コンテキストとして作用している知識や情報がコンテンツを消費する際に常に正しく生かされているかはとても疑わしいところです。
レジ袋有料化はマイクロプラスチック問題に対して本当に現実的に成果をあげることができるのでしょうか?
それを判断して効果の是非を判定するのは現在の科学で本当に可能なのでしょうか?
そもそも何を持ってして解決したとするのでしょうか?
判断基準があったとしてそれがほんとに正しいと言えるのでしょうか?
コンテキストの持つ一番の恐ろしさは、この「疑わしい」という感情を芽生えさせないところです。
コンテキストとコンテンツが自分の中でスマートに融合されてしまえば、コンテキストで味付けされた味であるにも関わらず、なんの疑いもなしにコンテンツをコンテキストの味と認識して消化してしまうのです。
コンテンツの味を吟味することなくコンテキストの味で食事を済ませてしまうことが「わかったつもり」です。
コンテンツをつつがなく消化できてしまえば、その時点でコンテンツの解釈は打ち止めになってしまいます。
「わかったつもり」を得られればコンテンツの詳細を把握しなくとも、間違った定義のまま理解してしまったとしても、コンテンツを消化したことになります。
しかしこれはコンテンツをちゃんと消化したと言えるのでしょうか。
コンテンツをきっかけにして自身の持つコンテキストを強化しているだけになっていないでしょうか。
賛成派の人は賛成になるような情報の読み取り方しかしませんし、反対派も言わずもがなです。
「一ヶ月前に比べて感染者が2倍に増えた」という情報があったとしましょう。
感染悲観派は「2倍に増えたヤバい」といい、感染楽観派の人は「分母が増えただけで比率は変わってないよ」と自分が持つ文脈で情報を解釈するでしょう。
同じコンテンツでも解釈のされ方は人それぞれの持つ文脈で180度変わります。
やはり人々が消費しているのはコンテンツではなくコンテキストということになります。
そして「そもそも感染の定義とは?」や「インフルと同じ検査方法じゃなくてなぜPCRなの?」という疑問が湧いてきてはじめて人はコンテキストの呪縛から逃れて「わかったつもり」から「わかった」に踏み出せるのです。