< カトリックな中小企業とプロテスタントな大企業 |
文章量:約2100字

気持ちの持たされよう

「気持ちの持ちよう」この言葉、何かつらいことがあったとき、落ち込んでいるときに、決まって誰かしらが言うやつです。

しかし、この言葉は絵に描いた餅と同じく、言葉にはなっているが実践となるとそうは問屋が卸しません。

じつは、気持ちとは「持つ」のではなく「持たされる」ものだからです。

朝起きて「今日は気分よく過ごそう」と思っても、満員電車で押し潰されたらイライラするし、上司に理不尽に怒られたら落ち込みます。

それでいて、好きな人からLINEが来たらやっぱり嬉しくなるものです。

つまり、気持ちは外部からの入力に対する反応なだけであって、自分の内側から湧き上がってくるものではないのです。

職場の環境が良ければ、何もしなくても気分よく働けます。

逆に、パワハラ上司がいる職場では、どんなにポジティブシンキングを心がけても、結局は嫌な気持ちになります。

ところで、プロ野球の投手には先発、中継ぎ(リリーバー/セットアッパー)、抑え(クローザー)という役割分担があります。

その中でクローザーは基本的にチームに一人だけが担える、ある種特別なポジションになっています。

先発は打ち込まれない限りは最低でも5回(1試合9回)ぐらいまでは投げますし、リリーフもクローザーも投げる投球回はだいたい1回だけです。

先発ほど長く投げるわけでもなく、他のリリーフと投げる頻度は同じぐらいであるにも関わらず、クローザーはチーム内で一番いい球を投げる投手が担うことが多いです。

先発より投げるわけでもない、他のリリーバーと投げる量も同じなのに、なぜクローザーは別格なのか?

それは試合の展開的に一番責任がかかってくる場面で投げるからです。

先発は初回に1、2点取られてもそれなりの投球回を投げきれば「お前のせいで負けた」とはなりません。

途中から投げるリリーバーも失点すれば「お前のせいで負けた」となる可能性はありますが、まだ後ろに攻撃のチャンスは残っているので、失点が決定的になるわけではありません。

しかし、クローザーは試合が終わる9回に投げます。

ここで抑えれば勝ちですし、抑えられなければ負けます。(もしくは延長戦になる)

仮に、味方が1点だけしか取っておらず、先発の後の中継ぎも3人ぐらい投げて8回までなんとか0点に抑えてきた状況がきたとしましょう。

そして、最後の9回にクローザーが登場します。

もしここで逆転されてしまったら、先発の頑張りも中継ぎの頑張りも全てが水の泡となります。

9回中8回がよくても、最後の1回がダメだったら全部ダメになります。

こういった試合構造になっているため、クローザーは特別なポジションとされており、その役割にはそれ相応の実力のあるピッチャーが担当することになります。

このように投げる場面によってピッチャーにかかるプレッシャーや責任が変わってくるのです。

そこを「気持ちの問題」としてクローザーに「もっと軽い気持ちで投げればいいじゃん」とか、先発に「1点でも取られたら負けると思え(対戦投手によってたまにあったりする)」と言ってみたところで、投手の気持ちが変わるでしょうか。

クローザーは点を取られて負けてしまえば8回までの他の選手の頑張りがすべて水の泡になる現実は変わらず、そこを打たれた本人が「まぁこういう日もあるさ」なんて言おうものなら周りから袋叩きにされてしまいます。

先発が初回に1点取られても、あと8回も攻撃チャンスがあるわけですから、そうなったらやっぱり「頑張って逆転してくれ」と願わずにはいられないでしょう。

つまり、投手の気持ちは試合状況という「環境」によって決まるのです。

野球に限らず、これは日常生活でも同じことです。

ですので、「気持ちの持ちよう」ではなく「気持ちの持たされよう」と考えるべきなのです。

社会があなたに不安を持たせる。

ニュースがあなたに恐怖を持たせる。

SNSがあなたに嫉妬を持たせる。

恋人があなたに幸せを持たせる。

こう考えた方が自然ですし、気持ちの持ちようでどうにかなるなら精神病など存在しません。

嫌な気持ちになったら、気持ちの持ち方を変えるのではなく、その原因となる環境や人間関係を特定して、改善を試みる方が正解なのです。

「他人は変えられないが、自分は変えられる」で変えられるのは気持ちではなく行動です。

コントロールが可能なのは気持ちではなく環境の方です。

ただし、すべての環境を変えることはできません。

しかし、どの環境に身を置くかは選択できます。

嫌な上司がいる部署から異動願いを出す。

ネガティブなニュースを見る時間を減らす。

愚痴ばかり言う友人との付き合いを控える。

応援してくれる人との時間を増やす。

これらは全部、自分でコントロールできることです。

「気持ちの持ちよう」という言葉は、個人の努力や精神力に問題を帰着させる、ある種の思考停止です。

しかし、「気持ちの持たされよう」と考えることで、環境の改善という具体的な解決策が見えてきます。

気持ちは自分で持つものではなく環境に持たされるものだったのです。

だからこそ、私は個性は環境ガチャの結果だと思っています。

さらに、先ほどの話を即否定することになってしまいますが、私たちは環境ガチャを自分で回しているつもりでも、実際には、そのガチャ自体が神の見えざる手によって、私たちの知らないところで勝手に回されているだけなのです。

Tag: 哲学