知性の源泉
我々が知性を感じるとき、その知性の源泉は知識量から生じているのだろうか?
多くの人が知性と聞けば、まず思い浮かべるのは知識の量や論理的思考力といったものではないだろうか。
確かに、テストの点数が高い人や、難解な本を読み込んでいる人、複雑な数式を操る人などを見ると「賢い人なんだろうな」と感じる。
しかし、人々が知性を感じるのは相手の持っている知識量や論理性ではなく、もっと別の何かなような気がする。
例えば、栄養学について詳しく知っていて、偏った食事の害悪について語ることができるのに、自分自身は日々ファストフードばかり食べて不健康な体型をしている人がいるとする。
一方で、特に栄養学的な知識はないが、何となく体に良さそうなものを選んで食べ、自然と健康的な体型を維持している人がいるとする。
どちらがより知性的だと言えるだろうか?
知識偏重の価値観で見れば、前者の方が知性的に映るかもしれない。
しかし、現実世界での適応という観点で見れば、後者の方がはるかに知性的な振る舞いをしているのではないだろうか。
これが、知識から生まれる知性と、身体性や本能から生まれる知性の違いだ。
レヴィ=ストロースが『野生の思考』で述べた概念にも通じるが、人間の知性は論理や知識だけから生まれるのではない。
長い進化(もしくは人生)の過程で培われた身体的な感覚や直感、本能的な反応もまた、知性の重要な源泉なのだ。
知識から生まれる知性は確かに優秀だが、往々にして抽象的なレベルに留まってしまう。
頭では分かっているのに行動が伴わない、理論は完璧なのに実践で失敗する、といった現象はその典型例だ。
対照的に、身体性や本能から生まれる知性は、現実世界との直接的な相互作用の中で磨かれる。
そのため、具体的で実践的な場面において、しばしば知識偏重の知性を上回る成果を生み出す。
ここで一つ、知識よりも身体性が大事だと思わされる出来事が最近あったので紹介したい。
自分はラフロイグというウィスキーが好きでバーに飲みに行った時は、年代物やボトラーズのラフロイグをよく飲む。
ある日、ラフロイグの25年を飲んでいると、おもむろにマスターが別の瓶のラフロイグ25年を棚の奥から引っ張り出してきて「こちらも飲んでみてください」とお勧めされた。
そして、お勧めされた方のラフロイグを飲んで(いや香りの時点で)あまりのクオリティの違いに青天に霹靂が走った。
同じ「ラフロイグ25年」という定番商品にも関わらず、美味しさの次元が違ったのだ。
同じパッケージの商品なのに中身の品質にこれほどの差分が発生することにものすごく衝撃を受けた。
自分が今まで持っていた単純なウイスキーの知識では、熟年期間の長さに比例して味も良くなる、ぐらいしかなかった(し、大抵はそう)。
しかし、同じ熟成年数であるのにも関わらず、もはや別の飲み物レベルで味が変わるという実経験を経ると、知識だけではなく、いかに自分が実際に体験することが大事なのかが分かる。
仮想や抽象レベルの話であれば知識の方が有用に思えるが、こと現実においては身体知は知識を凌駕する。
スポーツ選手が理論を学ばずとも卓越した技術を身につけたり、料理人が厳密なレシピなしに絶妙な味付けをしたりするのも、こうした身体知の現れと言える。
料理研究家のリュウジ氏は料理に関する知識をたくさん持っているからすごいのではない。
彼自らの感性と才能により、誰でも真似できる料理のレシピや、人気メニューの解析レシピを次々と生み出し続けているからすごいのだ。
もちろん、知識は知識でとても大事なものだ。
ただ、我々は知識だけが知性の全てだと思い込みがちである。
現代社会では、テストの点数や資格の数、学歴などが知性の指標として重宝される。
しかし、そうした評価軸だけに囚われていては、人間が本来持っている豊かな知性の可能性を見落としてしまう。
もし真の知性とやらが存在するのならば、それは知識と身体性、論理と直感、抽象と具体のバランスの中にこそ宿っている。
知識を持ち、経験をし、分別を得ることで初めて躰から知性が滲み出るのである。
そして、そのジャンルのトップオブトップというか「全人類でこの人が一番スゴい」みたいな人との邂逅が、人の人生を大きく作用する、と個人的に思っているが、その現象も知識だけではなく、その人間から発する全てを自分の六処全てで吸収した影響が多大に関与するためなのかもしれない。
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