ボキャブラリーはケンカの元
ボキャブラリー(語彙力)は豊富であればあるほどいいとされています。
言語化能力の高さも、仕事をこなす上で大事とされています。
語彙力の身につけ方や、言語化にまつわるハウツー本が、新書やビジネス書として世間にはたくさん流通しています。
扱える言葉の多さと表現の正確性を能力として捉えることはあれど、欠点として認識している人はあまりいないと思います。
ところで、言葉上ではそうであっても、現実の人々の行動は真逆である場合が多々あります。
やりたいと言っても一向にやらなかったり、頑張るといってもすぐ挫折したり、世界平和をいくら口にしても、世界から紛争が途絶える気配はありません。
言葉の上では、頭の良さは無条件に素晴らしい事になっているし、表現力の豊かさ、正確さ、合理的な思考など、自分にもそういった能力があればいいなと思っているし、他人にもその能力を期待していることになっています。
しかし、現実の人々の行動は違います。
頭の良さを前にすると「ちょっと何言ってるか分かんない」となるし、正確さの前には「細けぇことはいいんだよ」となるし、合理的であっても「でも気に入らない」とばっさり切り捨てたりします。
自身の主観や感情の琴線に触れなければ、どれほどの能力があろうとも一顧だにされません。
いくら身体能力の高いアスリートが存在しても、イベントや競技を開催して人を楽しませることができないのであれば、その能力に価値は見いだされません。
人々が直接やり取りしようとする相手は、認識できない天才ではなく、認識できる凡人なのです。
才人の生み出すエンターテイメントあふれる現代だから勘違いしていそうですが、普段の日常生活においてあなたが天才と接する機会はほぼないといっていいでしょう。
映画や本、アニメ、ゲーム、マンガ、Youtubeなどは日頃いくらでも接していますが、その製作者とあなたが直接やりとりすることはありません。
コンテンツを消費する際に、あなたが現実でやり取りする相手は、同じ話題で盛り上がれる友人だったり、購入時のレジの人だったりするはずです。
才能と消費者の間には意外と距離があるのです。
天才が凡人の楽しめるコンテンツになっている理由は、スポーツにおけるルールの存在や、メディアを介する時にはさまれる編集などで、才能から消費までの間に消化しやすいように加工が施されているからです。
才能はただ存在しているだけではダメで、何かしらの編集を加えて凡人の口に合うように調整しないといけません。
ただ足の速い人がいるだけではなんの面白みもありませんが、オリンピックの舞台を用意し、100メートル走で競わせれば一大エンターテイメントになります。
自分から離れた場所にいるから間接的に才能を堪能することができているだけで、実際に身の回りに実力者がいたとしても、そもそも気づかなかったり、理解できなかったり、絡みづらいだけです。
あなたが大企業で新卒で入った人だとして、社長と話す機会があっても疲れるだけでしょう。
それだったら同じ立ち位置の同期と、わちゃわちゃしていたほうが気兼ねなく話せます。
現実では、このように能力値が高い人とは一定の距離を保ちつつ、実際にやり取りし合うのは自分と同じような凡人となるのです。
能力者は間接的には存在しますが、あなたと直接絡むことはありません。
ですので、いくら能力があろうとも、その価値を直接あなたが見出すことはほとんどありません。
入社したてで、同期じゃなくて社長といきなり仲良くなろうとする奴は、よほどの才人か、半端ない出世欲を持っているか、もしくはただの変わり者です。
人と人とのマッチングにおいて重要なのは能力の有無よりも、能力が近しいかどうかです。
ボキャブラリーや言語化能力においてもそうです。
「明行足」と言ってもほとんどの人には伝わりませんが「仏」と言えば大体の人には伝わります。
語彙が豊富にあっても言語化能力が高くても、それを受け取る側に素養がなければ、最終的には「ヤバい」などの抽象度が高い言葉を使わざるを得ません。
こうなると能力の高さはむしろ足枷になります。
先程までで書いてきたとおり、日常におけるコミュニケーションは凡人同士のやり取りになるため、抽象度が高い(語彙力が低い)ほうが有利だからです。
さらに、扱うボキャブラリーの違いで、人々が形成するコミュニティーや話題が決まってきたりします。
いわゆるエコーチェンバー現象的な話ですが、その話は別でこちらに書いてあります。
人々の判断は能力の有無ではなく感情で決まるので、ボキャブラリーや言語化能力の高さが有利になるケースはむしろ少ないといえます。
また、能力が高いほど凡人に合わせるための加工や編集の手間が増えるので、これもディスアドバンテージとなります。
さて、ここからが本題なのですが、ボキャブラリーや言語化能力の高さは、どちらかといえば人と人との間に軋轢を生むケースのほうが多いのです。
言語化能力が高ければ表現の解像度が上がります。
解像度が上がれば表現できる色味も増えます。
今まで一つの色で表現されていたものが、解像度が上がったせいで複数色に別れてしまいます。
そうなってくると、いままで同じ意見だと思われていたものが、実は別物であると白日の下にさらされてしまうことになるのです。
例えば、A君とB君がいて、ともに青が好きだったとしましょう。
表現の解像度が低いうちは互いに「同じ青好き同士だね〜」と仲良くできます。
しかし、解像度が上がって藍色と紺色の区別ができるようになったとしましょう。
すると、A君は「藍色が好き」となり、B君は「紺色が好き」と互いの個性の違いをはっきり主張できるようになりました。
しかし、今まで「互いに青が好き」という共感で仲良くやってこれたものが、共感する理由が消滅したので、二人の間から仲間意識が喪失してしまいました。
言語化能力が高くなったがゆえに不協和が生じてしまったのです。
そして、違いが生まれるときのこたけのこ戦争のように人々は争いを始めます。
そうなると「同じチョコのお菓子じゃん」と言ったところで誰も聞く耳を持ちません。
このように、語彙が増え言語化能力が高くなったことにより、対立が表面化してしまうのです。
元は同じ思想なのにどんどん学派が枝分かれしていき、それぞれの学者が互いに互いを否定しあうようになるのも、これが原因です。
宗教も然りです。
信仰者が教義を言語化するごとに、それぞれの解釈の違いから、語彙や定義の多様性を生み、その数だけ新たな信仰形態が発生します。
仏教と一口にいっても、小乗や大乗に別れたり、日本だけでも10以上の宗派に分かれていたりします。
小乗仏教と大乗仏教は全然別物と扱われるし、浄土真宗と真言宗もまた別になります。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じ神様のはずなのに、互いに対立ばかりしています。
いっそのこと、脳みそをスポンジにして「仏サイコー」「神エライッ」とだけ何も考えずに言っているほうが平和にみんな仲良くできそうです。
一般人の我々が才能や能力者と適度な距離感を保ちつつ生活している理由は、そういった不要な争いを避けるための野生の思考の結果だったりするのかもしれません。
ですので、私は語彙力や言語化能力よりも反語彙力をオススメしています。
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