< 客観主義 | マイクロマネジメントおじさん vs ドキュメントおじさん >
文章量:約2100字

コンテキストを共有せよ

意思疎通の相互理解に文脈(コンテキスト)は必須だ。

しかし、大概にして人々は理解を欲しているはずなのに、文脈を与えず知識の断片だけを投げつけてくる。

偉い人から「酒を持ってこい!」とだけ言われても、それが日本酒なのかビールなのかウィスキーなのか、はたまたそれ以外なのかは人によって変わる

しかし、そこで相手と自分にそれなりの関係性が築かれていれば「ああ、いつものあの酒ね」となる。

これがコンテキストであり、意思疎通に欠かせない要素となっている。

だが、科学や学問が重要視される現代社会では、知識は大事との認識が世間に浸透しており「情報さえ揃っていればヨシ!」とみんな思い込んでしまっている。

しかし、知識だけでは片手落ちだというのは過去にいくらか書いてきた。

知識よりもパターン認知のほうが融通が効く。

知識がどれだけあろうと良い選択ができるとは限らない。

知識は経験と組み合わせることにより真価が発揮される。

このように知識は物事の一部分だけを切り取ったもので全部ではない

だから、知識をいくら蓄えようとも「理解」は保証されない。

知識と理解を結びつけるためにはコンテキストが必要になってくる。

知識が経験によって生きてくるのは、経験が文脈として知識を下支えしてくれることにより理解を促してくれるからだ。

コンテンツ(知識)はコンテキスト(文脈)を土台にして成り立っているケースがほとんどだ。

ボールだけがポツンと一つだけあっただけでは何も始まらない。

そこにドッジボールやサッカー、バスケットボールなど「ルール」というコンテキストを与えれば、一気にみんなが楽しめるスポーツとなる。

ボールだけ与えても、それを楽しむためのコンテキストがなければ、ボールを上手く活用することはできない。

そこで自分独自にルールを編み出してボールを使って遊びに繋げられるのは一部の天才だけだ。

知識と文脈も、ボールとルールの関係と同じようなものだ。

知識だけを与えられても、それを活かすための文脈も与えられないと、どうしようもない。

知識だけを与えられて、それを活かすことができるのはほんの一握りの人だけで、ほとんどの人には文脈という点火装置が必要なのだ。

「勉強をしろ」とだけ言われても、それが具体的になんの役に立つのかを知れなければ本気で勉強しようとは思わない。

仕事で「言われたことだけをやってろ」と言われても、その作業がどのように会社や社会に貢献するのかを理解していなければ、仕事に身が入らない。

知識を活かすためには文脈が必要で、知識と文脈が合わさると能動的な行動に移すことができる。

仮にCSの学位があっても何も仕事をしていなければ、それは存在しないのと同じで、仕事という文脈を与えられて、初めて社会に価値をもたらすことができる。

そして、人間は文脈さえ与えてやれば、意外と勝手に動く生き物だ。

そして、動いているうちにいろいろと理解するようにできている。

Wikiだけを読み込んでいくら知識を得ても、Apexやスプラトゥーンがうまくなることはないが、実際にゲームをプレイすればいろいろと立ち回りが分かるようになる。

「理解」とは具体的な行動の結果だ。

自分は技術力もさしてないし専門知識もあまり持っていないが、10年以上プログラミングで飯を食えている。

なぜならば、ある程度の基本知識を身につけた上で、自分というコンテンツを活かすための理由が、仕事というコンテキストとして常に与えられてきたからだ。

仕事を続けていれば嫌でも、いろいろなことを「理解」する。

JavaやRubyをもともと知らなくても、仕事で必要となれば、成果を出すために理解することになる。

逆に、仕事がなければただの、子供部屋引きこもりゴミクソニートおじさんになる。

能力だけでは何にもならない。

能力を活かすストーリーが必要なのだ。

勇者がただ存在するだけではずっとただのLv1の雑魚だ。

そこにドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどのコンテキストが加わることにより、勇者は冒険に旅立ち、成長し、世界を救うのである。

そして、今までの話で分かるように、与えられたコンテキストによって理解の内容と行動は変わる。

だから、理解と行動に明確な方向性を求めるのであれば、しっかりコンテキストを共有しなければならない。

サッカーで遊んでほしいのに、ボールだけを与えるだけでは不十分だ。

与えられた側がバスケットボールしか知らなければ、バスケットボールをはじめてしまう。

ボールと同時にサッカーのルールとサッカーで遊んでほしいという思いを伝えなければならない。

しかし、社会ではボールさえ渡せば自分が頭の中で思い描いているスポーツを勝手にやってくれると思いこんでいるパターンが多いように思う。

自分の頭の中にあることは伝えなければ他人には伝わらないし、常に他人が自分と同じように思っているとは限らない。

情報単体だけではなく、その情報にまつわる文脈も伝達して、可能な限り互いの認識を近づける必要がある。

どこまでいっても他人は他人で、自分の人生とは全く違った人生を歩んできているので、ベースとなる思想や考え方、言葉の捉え方は微妙に人それぞれ違う。

伝達の精度を高めるためにもコンテキストの共有は大事になる。

コミュニケーションですれ違いが発生するほとんどの理由はコンテキストを共有していないせいだ。

不文律を前提に作業を進めれば、自分と相手の不文律が違っていた場合、いざ出来上がったあとで、認識のズレが表出し、作業がふりだしに戻ってしまう可能性がある。

そこで最初に、多少オーバーヘッドは発生してもコンテキストを共有をしておけば認識のズレを抑えることができる。

要は、コンテキストのない情報は不正確であり、不正確なコミュニケーションは成果の質を下げる

コンテキストは積極的に共有せよ。

Tags: 仕事, コミュニケーション