< 言語化は思考のコンパイル | アンテナとフック >
文章量:約2900字

ファスト教養とコンテキスト消費社会

タイパ(タイムパフォーマンス=時間効率がいいこと)よくビジネスに役立ちそうな教養を得ようとする姿勢をファスト教養というそうです。

映画やドラマを早送りで視聴したり、書籍の内容をまとめ動画で確認したり、原典ではなく「マンガでわかる○○」や『もしドラ』みたいな敷居の低い本を読むことで、あらすじやエッセンスを効率よく学習することのようです。

ちなみに私は、本物の教養(?)が良いものだとも、ファスト教養が悪いものだとも思っていません。

ところで、ファスト教養がなぜこんなに世間に溢れているかというと、現代はコンテキスト消費社会だからです。

コンテキスト消費とは何かというと、コンテンツを消費するためにコンテンツを消費することです。

もう少し分かりやすくいうと、コンテンツそのものを楽しむのが目的ではなく、別の目的のためにコンテンツを消化することをいいます。

ちなみに、コンテキスト消費は私が勝手に作った造語です。

ワンピの映画を見る前にワンピの原作を読んでおくようなことです。

はたまた、自分が好きな人が鬼滅好きだから、その子と会話をするために自分も鬼滅のアニメを観ておく、といったことです。

ビジネスのために教養を得ようとする姿勢はまさにコンテンツ消費ではなくコンテキスト消費だと言えます。

コンテキスト消費としてのコンテンツ消費は、あくまでも目的のための一手段にすぎないので、可能な限り効率よく消費したいと思うのが人情です。

倍速視聴などは、そういった思いが行動として表れた結果です。

ボスを倒すためのレベル上げにおいて、スライムよりメタルスライムを倒して早く経験値を稼ぎたいのと同じことです。

なにかと忙しい現代人にとっては、コンテキスト消費する際にファスト教養はとても魅力的に映ります。

ワンピの映画を観るためだけに、100巻以上ある原作を全部読むのは大変です。

しかし、まとめ動画やWikiであらすじやキャラクターを知るだけならササッとできます。

流行となる話題やコンテンツが目まぐるしく変わる現代で、そういった話題に絶えずついていくためには、コンテキスト消費としてのコンテンツ消費が常に求められます。

そこの需要をついたのがファスト教養というわけです。

ちゃんとした教養(?)をじっくり身につけるより、ファスト教養を高速に使い回すほうが、それこそコミュニケーションにおけるコスパがいいのです。

仮に、教養をしっかり身につけたとて、それがあなたの人生の助けになる保証はどこにもありません。

教養とファスト教養の関係は、ご飯とふりかけの関係に似ています。

そして、コンテンツとコンテキストの関係もご飯とふりかけの関係に似ています。

ご飯は教養であり、ふりかけはファスト教養です。

ご飯はコンテンツであり、ふりかけはコンテキストです。

ふりかけがあればご飯が美味しく食べられるように、コンテキストがあればコンテンツを消化しやすくなります。

ご飯(教養)だけでは食べにくいのでふりかけ(ファスト教養)をかけます。

これで白米だけでご飯を食べるより美味しくなるのと同じように、味気ない教養がファスト教養のおかげで、いい感じに摂取できるように(なった気に)なります。

ただ、その時の味を決めているのはご飯ではなくふりかけです。

コシヒカリだろうがササニシキだろうがゆめぴりかだろうが、そんな違いはほとんど気になりませんが、ふりかけを変えれば味はダイレクトに変わります。

本体より調味料の存在感が強くなってしまうことと、教養よりファスト教養のほうが世間に広く頒布してしまう関係性は似ています。

この事実が、ファスト教養を危惧している人が持つ危機感につながっているのでしょう。

ふりかけばっかりに頼ってしまうとお米の味が分からなくなってしまう、といった具合に。

それはさておき、ふりかけご飯の美味しさを決めるのはほぼほぼふりかけなのですから、ふりかけの味はやっぱり大事です。

ふりかけの具材で好き嫌いが分かれる可能性はありますが、お米の種類で好き嫌いが別れることはそうそうありません。

食べているのはほぼほぼご飯なのに、その善し悪しを決めるのはふりかけるふりかけにかかっているのです。

そこで「いや、味の決め手はやっぱりお米だよ」と言ったところで、ふりかけをかけてご飯を食べる時点で、ご飯の味はふりかけに依存するようになります。

仮に米の粒を揃えて炊いたような最高のご飯があったとしても、それはそれですごく美味しいんでしょうが、やっぱりご飯だけでは物足りなくなってきますし、そんなクオリティのものを毎食毎食用意できるわけがありません。

ファスト教養じゃなくてちゃんとした教養が大事論は、この時に、ふりかけではなくお米にこだわるようなものです。

確かにお米も大事かもしれませんが、炊くのに失敗したり、よほど不味い米でない限り、日常においてみんなが気にするのはふりかけのほうです。

そう考えるとファスト教養もそんなに悪いものじゃありません。

逆にお米に対してこだわりがあり、そのうんちくを垂れられても、ほとんどの人にとってはどうでもいい話です。

ひとめぼれとあきたこまちの違いを語れるより、「おかかが好き」や「ゆかりは苦手」みたいな会話のほうが汎用性が高いのです。

教養は人生を豊かにする、みたいな話がありますが、別にそんなこともないと思いますし、むしろファスト教養のほうが人生を豊かにするんじゃないかぐらいに思います。

使いどころのない深い無駄な知識よりも、みんなで共有できる浅い知識のほうが明らかに人生を豊かにするような気がします。

野生の思考』を読んでいた人はシン・ウルトラマンをより深く楽しむことができます。

しかし、そんなことより、普通にウルトラマンの知識をもってして、みんなで「ゼットンの扱いがクソ」「バルタン星人を出してほしかった」みたいな会話をして盛り上がるほうが明らかに楽しいと思います。

野生の思考とウルトラマンが人間を好きになった理由を結びつけて、映画のエンディングロールで自分一人納得感に包まれたとて、それを共有できる相手がいなければ、結局最後の残るのは孤独感だけです。

この例で分かるように、日常で必要になるのは深い知識ではなく、みんなで共有できる浅い知識なのです。

更にいうと、知識が大事なのではなく、みんなで共有しあえる現実そのものが大事なのです。

人の人生を豊かにするのは「理解」よりも「共感」です。

誰にも共感も共有もできない知識など持っていても、ここでブログとして吐き出すぐらいしか使いみちがないのです。

みんなとの共感や共有が欲しいから、そのための手段としてファスト教養があるのです。

みんなが求めている最大のコンテンツは共感と共有です。

知識を「理解」をすることが大事なのではなく、知識を「共有」することが大事なのです。

どれだけ深い知識を持っていようが共感と共有なきものはただの虚無です。

SNSが我々の日常に染み付いているのも、それが共感と共有を無限に産み出し続ける装置として働いているからです。

だから、共感と共有が得られにくい教養ではなく、手軽に利用できるファスト教養をコンテキスト消費して、共感と共有を貪り続ける世界になっているのです。

ちなみに、深い知識より浅い知識というコンセプトはメタファー認知保険反語彙力にもつながる話です。

Tag: 哲学